2012年8月15日水曜日

第23章 盗まれた手紙




--盗まれた手紙」はアメリカ人の小説家エドガー・アラン・ポーが1844年に発表した短編小説。ポーはさまざまな分野の論文・評論や詩を書いたが、推理小説の元祖としても知られている。この小説では、「モルグ街の殺人事件」「マリー・ロジェの怪事件」と同じく、名探偵デュパンが活躍する。(まとめ・渡部)--



W 今回は、ポーの「盗まれた手紙」です。小池さんは、この小説を読んだの、はじめてですか?

K はじめてですね。ポーの作品自体がはじめてかな、多分。作者のポーについては、芥川龍之介が「ポーの片影」という文章を書いていて、青空文庫にも入っていますね。

W 青空文庫では現在、ポーの作品を12編、読めるようです。ただ、佐々木直次郎訳の「モルグ街の殺人事件」と森鴎外訳の「病院横町の殺人犯」は同じものだから、本当は11編ですね。

K 横溝正史に「病院坂の首縊りの家」という推理小説がありましたね。映画にもなりましたが。

W 僕は高校の英語の教科書に、この「盗まれた手紙」という小説が載っていたんです。好きな作品で、これまで何度か読みかえしたことがあるんですが、そのたびに、それまで見落としてきた新たな発見があります。

 高校の英語の教科書には、サキというイギリスの小説家の「開いた窓」という短編小説も載っていました。これも風刺が効いていて、とても印象に残ってます。時事英語とか会話を扱ったところは全然覚えていないんですけど。ポーやサキの小説みたいに、日本語で読んでみても面白い、一つの完結した作品としてすぐれているといった教材の方がいいんじゃないかと僕は思うんですけど、高校生に読んでもらうには。そのあたりはどうなんでしょうね。やはり最近は、「実生活に役立つ英語」ということが強調されてるのかな、会話とか。

K 僕は高校の英語の教科書に何が載っていたか、全く覚えておりません。一文字すら覚えていません。

W へえ、衝撃の告白ですね。まだ10年ちょっとしかたっていないのにね。

少し作品の筋を追ってみましょうか。この小説の語り手の「私」は、デュパンという友人の男とパリに住んでいます。そこに、知人の警視総監G氏が訪ねてきます。Gは、警察で解決できないある事件についてデュパンの意見を聞きにきたのです。



 「ところで今度の面倒なことというのはなんですか?」と私が尋ねた。「殺人事件なんぞはもうご免こうむりたいものですな」

「いやいや、そんなものじゃないんだ。実は、事がらはいたって単純なので、我々だけで十分うまくやってゆけるとは思うんだが、でもデュパン君がきっとその詳しいことを聞きたがるだろうと思ったんでね。なにしろとても奇妙なことなんだから」

「単純で奇妙、か」とデュパンが言った。

「うむ。さよう。で、またどちらとも、そのとおりでもないので。実は、事件は実に単純なんだが、しかも我々をまったく迷わせるので、ひどく参っている始末なんだ」

「じゃ、たぶん、事がらがあまり単純なので、それがかえって、あなた方を当惑させているんだな」と友が言った。

「ばかを言っちゃいかん!」と、総監は心から笑いながら答えた。

「きっと、その謎はちょっと、はっきりしすぎるかな」と、デュパンが言った。

「おやおや!そんな考えってあるもんかね?」

「少々わかりきっていすぎるんだよ」

(「盗まれた手紙」より)



W 警視総監の話によると大臣のDが、ある高貴な夫人の手紙を盗んでしまった。この手紙の内容には大きな影響力があるので、その婦人は手紙を取り返したいと思い、捜索を警視総監のGに依頼した。GはD大臣の家をくまなく捜索したが手紙は出てこない。相談されたデュパンは、D大臣の家をもう一度、丹念に探すようアドバイスし、Gは帰ってゆく。

 一カ月ほどたって、警視総監は再びデュパンの家を訪れ、再捜査が失敗に終わったと告げる。デュパンは、引き出しから、盗まれた手紙を取り出し、5万フランの小切手と引き換えに手紙を総監に渡す。



総監は狂気せんばかりにそれをしっかりつかみ、震える手で開いて、その内容を大急ぎで、ちらりと見、それから扉の方へよろめきよると、とうとう無作法にも、さっきデュパンが小切手を書いてくれと言ったときからひと言も口をきかずに、部屋から、そして家から跳び出していったのであった。

(「盗まれた手紙」より)



W 最後の「跳び出していったのであった」というところがいいですね、感じがでていて。そのあと、デュパンは、事の顛末について、「私」に説明しはじめます。



「(前略)彼はいつも、自分の手にしている事件に対してあまりに深謀すぎたり浅慮すぎたりしてしくじるのだ。小学校の子供だって彼よりももっとうまく推理するのがたくさんいる。僕は八歳ばかりの子供を知っていたが、この子は『丁か半か』という勝負で言い当てるのがうまくて、みんなに褒められていた。この勝負は簡単なもので、弾石でやるのだ。一人がこの石を手にいくつか持っていて、相手にその数が丁か半かときく。もし当てたら、当てた方が一つ取るし、違ったら、一つ取られるのだ。いま言ったその子供は学校中の弾石をみんな取ってしまったものだよ。むろん、彼は当てる法則といったものを持っていたのだ。というのは、ただ相手のはしっこさを観察して、その程度をはかるということなんだ。たとえば、まったくの馬鹿が相手になっていて、握った手を上げて、『丁か半か?』と聞く。その生徒は『半』と答えて、負ける。が二度目には勝つ。というわけは、彼はこう考えるのだ。『この馬鹿は初めに丁を持って勝ったんだから、こいつの利口さの程度ではちょうど、二度目には半を持つくらいのところだろう。だから半と言ってやろう』とね。――そこで半と言って勝つのだ。それから、相手がこれとはもう少し上の馬鹿だと、彼はこういうふうに考える。「こいつは初めに僕が半と言ったので二度目にはすぐ、前の馬鹿のように、簡単に丁から半へ変えようとするだろう。が考えなおしてこれはあまり簡単な考え方だと思いつき、結局やはり前のように丁を持つことに決めるだろう。だから丁と言ってやろう」とね。――で、『丁』と言って、勝つんだ。そこで、仲間の者たちに『運が強い』と言われていたその生徒のこの推理の方法だね、――これは最後まで分析すると、何かね?」

 「それはただ推理者の知力を相手の知力と合致させることにすぎんね」と私は言った。

 「そうなんだ」とデュパンが言った。「で、僕はこの子供に、彼の成功の基であるその完全な合致をどんな手段でやるのかと尋ねたら、こう答えた。「僕は、誰かがどれくらい賢いか、どれくらい間抜けか、どのくらい善い人か、どのくらい悪い人か、またその時のその人の考えがどんなものか、ということを知りたいと思うときには、自分の顔をできるだけ正確にその人の表情と同じようにします。それから、その表情と釣り合うように、または一致するようにして、自分の心や胸に起こってくる考えや気持ちを知ろうとして待っているんです」というのさ。この生徒のこの答えは、ロシェフコーや、ラ・ブリュイエールや、マキャベリや、カンパネラのものとされている、あの、あらゆる贋の深淵さよりも深いものだよ」

(「盗まれた手紙」より)



W 弾石は「おはじき」のことですね。このあたり、面白いと思うんですけど、どうですか?

K 人の賢さは顔に現れるというのは、なんとなくわかりますね。なるほど、顔真似をするのか。いい方法かもしれません。

W 僕は、英語の教科書で、賢い子供が友人の弾石を全部取ってしまったというところは、よく覚えていたんですけど、相手の気持ちを知るために、相手の子供と同じ表情をしてみるというところは読み落としてました。ここが大切なところなんですよね。

K 相手の気持ちになりきるといったことは、いろいろと応用がきくんでしょうか?

W 例えば、野球で打者が、内角か外角か、低めか高めか、速球か変化球かを読む所なんかは、この弾石の話をちょっと複雑にしたようなものですよね。打者と投手や捕手の読みあいというか、裏のかきあいで。バントか強打か盗塁かというあたりは監督同士の読みあいだし。相手の立場にたってみる、相手の気持ちになってみるというのは有力な方法なんじゃないかな。

 僕は、麻雀やトランプといったゲームをやっていて、「こういうことって、よくあるよなあ」と思います。麻雀の場合、この状況ならこの牌を切れば、確率的にいって一番あがりやすいということは、上達するにつれて、だんだんわかってくるんです。でも、いつもそれをやっていると、決して勝てない。相手に手筋を読まれてしまう。いわゆる損な手というか、確率的に見れば可能性の低い手を出さないと勝てない。そして『あの人は何をやってくるかわからないから怖い』と思わせるのが、一番いいんですね。だから、麻雀をずっとやってると、だんだん性格が悪くなってくる。

一人麻雀のつまらなさは、お互いの駆け引きを味わえないことですね。囲碁や将棋は神様だけが知っている最善手があると思うけど、麻雀には多分ない。あっても、そればかりだと勝てない。

K 一人麻雀?

W この小説の小学生みたいに、相手と同じ表情してみるというのも面白いと思います。ただ、麻雀やっている4人が、みんな隣の人の表情をまねし始めたら収拾がつきませんよね。麻雀やってんだか、にらめっこやってんだか、わからなくなっちゃう。

K 想像すると面白いですね。

 麻雀やトランプのようなゲームじゃなくて、実生活のなかで、こういう相手の気持ちを読んで、人より優位に立とうなんてことはやっているんですか、先生の場合?

W 僕は、そういうこと好きじゃないんで、まずやりません。人工は自然に負けるというか、変な作為や計らいを持たないのが一番良いと思ってますから。余計なことは何も考えない。それに人に負けたって良いじゃないですか、別に。日常生活の中で人に勝ったって、たいしたことないでしょ。五十歩百歩ですよ。それにもともと、そういうこと考えったって僕の場合、決してうまくできないんですね。能力がないというか。

K よくわかります。

W 本人は、一生懸命バケツに水入れてるんだけど、バケツの底に穴があいてるようなもんで。まあ、バケツに穴があいてることに気がついたのが僕の場合、結構若い頃だったんで、その点はラッキーでした。それ以来、水は入れません。バケツの修復もしてませんけど。

 自分のことではないんですが、一度、他のゼミの学生さんに面白い話を聞いたことがあります。そのゼミの先生は、一本気で僕はとっても好きだったんです。もう亡くなりましたけど。その先生は、人が何か提案すると、何でも反対する癖がありました。そのゼミの学生さんが言うには、A案とB案と2つあって、先生にA案でやってもらい時には、両案を示して「B案がいいですよね」と言うんだそうです。すると、先生は「A案がいい」と言ってくれるんだそうです。いかにもありそうな話なんで、笑ってしまいましたが。



「地図の上でやる字捜しの遊びがある」と彼はまた話しつづけた。「一方の者がまず――町の名でも、河の名でも、州の名でも、国の名でも――つまり、いろんな色のついたごちゃごちゃした地図の表面にあるどんな名でも言って――相手に捜させるんだ。この遊びの初心者はたいがい、いちばん細かい字で書いてある名を言って相手を困らせようとする。けれども玄人は、大きな字で地図の端から端までひろがっているような名を選ぶのだ。そういう文字は、あまり大きすぎる字で書いてある往来の看板や貼札と同じように、あまりに明瞭すぎるためにかえって人眼につかない。そしてこの物理的の見落しは、知能が、あまりひどく、あまり明白にわかりきっていすぎる事がらを気づかずに過すという精神的の不注意と、ちょうど類似しているものなんだ。しかし、こういうことはあの総監の理解力のいくぶん上か、あるいは下のことであるらしいね。彼は、大臣があの手紙を誰にも気づかれないようにするいちばんよい方法として、それをみんなのすぐ鼻先に置きそうだとか、あるいは置いたかも知れないなどということは、一度だって考えたこともありゃしないのさ。

 だが僕は、D――の大胆な、思いきった、明敏な工夫力と、彼がその書類を有効に使おうと思うなら常にそれを手近に置かなければならないという事実と、それが総監のいつもの捜査の範囲内には隠されていないという、その決定的な証言とを考えれば考えるほど、――大臣がその手紙を隠すのに、ぜんぜんそれを隠そうとはしないという遠大な、賢明な方策をとったのだということがわかってきたのだ。

 てっきりそうにちがいないと思いながら、僕は緑色の眼鏡を用意して、ある晴れた朝、ひょっこり大臣の邸を訪問した。D――は在宅していて、例のとおり欠伸をしたり、ぶらぶらしたり、のらくらしたりして、退屈でたまらないというふりをしていた。彼はおそらく現代での、もっともほんとうに精力的な人間だろう、――が、それは誰も見ていないときだけのことなんだ。(後略)」

(「盗まれた手紙」より)



W このあたり、どうですか?

K 灯台もと暗しということですね。

W 推理小説の基本的な公式が全て詰まってる作品のように僕は思いますね。



推理小説について

W ところで、小池さん、推理小説全般についてはどうですか?僕なんかよりはたくさん読んでいるでしょ。最近の日本の作家のことなんか聞くと、本当によく知ってるじゃないですか。以前、アイラ・レヴィンの『死の接吻』という本を貸してあげたら、一日で読んできたんで、驚いたことがありました。

K はい、よく読みますよ。暇つぶしに。

W 『死の接吻』は、アメリカの23歳の若者が1953年に書いた処女作です。主人公も大学生ですが、本当によくあんなものが書けたな、と驚嘆してしまうくらいよくできた面白い小説でした。今でもハヤカワ文庫で読めます。最近の日本だと、どんな作家のものが面白いんですか?

K 僕がよく読むのは、東野圭吾とか伊坂幸太郎、道尾秀介、舞城王太郎とかですけど、たくさんいるんじゃないですか。多分ちょっとしたブームですから。

W 東野圭吾以外はよく知らないな。次にあげるのは、作家の三島由紀夫が、1960年に書いた「推理小説批判」という文章の一部です。エラリー・クイーンの『Yの悲劇』という推理小説の読後感の形をとっています。



ところでおもしろく読むには読んだが、私の推理小説ぎらいはなおりそうもない。そこで、推理小説ファンなら想像もしないところのやぼな推理小説批判を、この古典的名作に向けるのを許してもらいたい。

 第一に、私は、犯人以外の人物にいろいろ性格描写らしきものが施されながら、最後に犯人がわかってしまうと、彼らがいかにも不用な余計な人物であったという感じがするのがつまらない。この世の中に、不用で余計な人間などというものはいないはずである。

 第二に、冒頭の老ハッターの自殺はまだしも、ハッター一家の説明に及んで、その誇張した表現がイヤである。なるほどこれは一家に伝わる病毒を暗示する伏線ではある。しかし、大したことはないアル中むすこやフーテン娘の行状まで、作者は(わざと)気むづかしい凡庸な小市民的道徳意識で見すぎている。私はこんな意識について行けない。

 第三に、探偵がキザでイヤである。どうして名探偵というやつは、こうまでキザなのであるか。あらゆる名探偵というやつに、私は出しゃばり根性の余計なお節介を感じるが、これは私があんまり犯人の側につきすぎるからであるか。大体、知的強者というものにはかわいげがないのだ。

 第四に、もうよそう。ともかく古典的名作といえども、ポオの短編を除いて、推理小説というものは文学ではない。わかりきったことだが、世間がこれを文学と思い込みそうな風潮もないではないのである。        

(三島由紀夫「推理小説批判」より『三島由紀夫評論全集1、新潮社 987988ページ 「旧仮名遣い」を「新仮名遣い」に変更)



W 三島由紀夫は小説や戯曲も良いですが、僕は特に評論が好きなんです。明晰で、書いてある日本語に意味不明な箇所が全くない。現在ですと、新潮社から出ている4巻本の『三島由紀夫評論全集』が最も簡単に入手できます。4冊とも1000ページ前後の大部な本ですが。

 それから、ここで扱われている『Yの悲劇』ですが、エラリー・クイーンの代表作の一つで、特に日本で人気がありました。よく、推理小説オールタイム・ベストテンなんかが日本であると、必ずベストテンの上位にランクインしていたものです。ドルリー・レーンという耳の不自由な引退したシェークスピア俳優が事件を解決していきます。なかなか、魅力のある人物で、僕は三島由紀夫と違って、あまりキザな印象は受けませんでしたけどね。『Xの悲劇』『Zの悲劇』『最後の悲劇』との4部作になっていますが、やはり『Yの悲劇』が一番おもしろかったです。

 また、日本で『Yの悲劇』の評価が高かった理由として、犯人の意外性をあげる人が多かったんです。犯人が最後にわかるタイプの推理小説なんで、具体的にどういう犯人かは言いませんが。アガサ・クリスティーの「アクロイド殺人事件」とは別の意味でとても意外だったんですね。

 ただ、現在の日本では、『Yの悲劇』と似た犯人像を持つ小説や映画がすごく増えてるように思います。今、『Yの悲劇』を最後まで読んでも、犯人が意外だと感じる人は少ないんじゃないでしょうか。

 僕は、去年まで「犯罪と非行」というタイトルの授業を持っていました。毎年、340人の受講者がいましたが、彼らに犯罪や非行が出てくるお気に入りの小説や映画を一つ取りあげてもらって、そのお話しがどう素晴らしいのか、授業で一人一人に発表してもらいました。やはり、現代日本の作品が多くて、僕の知らないものもたくさんありました。それで、それらの小説を家で読んできたり、映画をDVDで観たりしました。その時思ったのが、「『Yの悲劇』みたいな殺人犯が多いなあ」ということでした。実際の事件で、そうした殺人は全然増えてないんですけどね。フィクションのなかでは、あきらかに増えている。

K それはどういう殺人犯ですか?

W 推理小説のネタバレになってしまうんで、ここではちょっとまずいです。あとで、こっそり教えてあげます。もちろん『Yの悲劇』を読んでもらってもいいんですが。

三島由紀夫の文章に戻りましょうか。三島は、推理小説批判として3つの点を挙げていますが、第一の点については、どう思いますか?

K よくわからないですね。犯人以外の人も「不用な余計な人物であつたという感じ」は、特にしませんよ。

W ああそうですか。僕は、三島の意見に賛成なんです。推理小説って、犯人が最後にわかるケースが多いですよね。僕も読んでて、靴の上から足をかく感じで、いらいらすることが多かったんです。三島の文章を読んで、自分の不満の理由がよくわかりました。犯人の名前は小説やドラマの初めに提示してもらいたいものです。論文の要約を、最初に置くようなもんで。

K それじゃあ、推理小説にはなりませんよ。

W でも、数は少ないですが、最初から犯人が分かっている小説やドラマもありますね。倒述ミステリーと言うんですが。今日の話でいうと、ポーの「盗まれた手紙」は、犯人がはじめから分かっている倒述物です。同じデュパンが活躍する「モルグ街の殺人事件」や「マリー・ロジェの怪事件」は違いますけど。それから、前回出てきたドストエフスキーの『罪と罰』もはじめから殺人事件の犯人がわかっています。ともに19世紀の作品ですが。

K 最近の作品では、何かありますか?

W 松本清張の短編にいくつかありますね。彼の長編は、あきらかに犯人探しですけど。清張は長編より短編小説の方が面白い。

 映画だとウディ・アレン監督の「マッチ・ポイント」とか「ウディ・アレンの重罪と軽罪」、アンソニー・ミンゲラ監督の「リプリー」なんてそうですね。ウディ・アレンの映画って、いつも警察が間抜けで、結末が勧善懲悪にならない。みんな眠らされてしまっているのに、アレン監督だけ目を覚ましている感じがします。そして、すごく遠くを見てる。「リプリー」はフランスのルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」のリメイクですけど、殺人を犯した主人公の青年と一体化できて、わくわくしながら観てしまいます。とてもきれいな映画ですね。

 それから忘れてならないのは、テレビドラマの「刑事コロンボ」と「古畑任三郎」シリーズです。コロンボが「罪と罰」から、古畑がコロンボから影響を受けていることは有名ですが。こうしてみると、犯人がはじめから分かっている作品って、面白いものが多いですね。コロンボは世界で一番有名な刑事で、古畑は日本で二番目に有名な刑事だと、何かで読んだことがあります。そんなに人気あるんだったら、同じような作品をもっと作ればいいのにと思いますけどね。作るのがむずかしいのかな。

K 日本で一番有名な刑事はだれですか?

W 織田裕二がテレビや映画で演じている「踊る大捜査線」の刑事だそうです。残念ながら僕は一度も見たことありませんが。

 それから、犯人が最初からわかっている倒述ミステリーって、いくつかに分類できると思います。一つは作者が犯人の方に寄り添うタイプです。今あげた例でいうと、「罪と罰」やウディ・アレンの映画、「リプリー」や「太陽がいっぱい」なんかそうですね。2つめは、警察や探偵の方に寄り添うタイプです。ポーの「盗まれた手紙」はその代表でしょう。3つ目は、中間的なタイプで警察や探偵と犯人の側の両方を上手に描きます。松本清張の短編や「死の接吻」、コロンボ、古畑シリーズはこのジャンルに入るでしょう。

K でも、どちらにしても、犯人の初めから分かっている推理小説って少数派ですよね。

W そこで、犯人が初めから提示される作品を増やす方法ってあるんですよ。わかります?

K 推理小説の最後の部分から読むっていうんでしょう。何度か聞いたことありますよ。

W テレビでアガサ・クリスティーのポアロ物やマープル物なんてやっていると、ビデオにとって、一番後ろから見始めますね。そのあと最初に戻ると製作者が苦労して作っているところなんかがよく見えてきて面白いですよ、退屈しない。松本清張も長編小説はうしろから書き始めると言っていたし、うしろから読んだり見たりというやり方もありなんじゃないかな。犯人が分からなくていらいらしたりしないし、時間の節約にもなります。そんなことで、いらいらしちゃあ駄目か。 

K 時間の節約って。先生、暇な時間がめちゃくちゃあるじゃないですか。

W あはは。節約、節約。

三島由紀夫の推理小説批判の二つ目、三つ目の論点にもよくわかるところがあります。「気むずかしい凡庸な小市民的道徳意識」に推理小説が足を取られやすい、と書いていますね。また、自分が「犯人の側につきすぎる」と言っていますが、これも逆の方向から言うと、推理小説が犯人にきちんと寄り添わず、警察や探偵、社会や市民の視点ばかり取り入れることを批判しているんだと思います。市民社会につきすぎて、結局、勧善懲悪になってしまうという。先ほどあげた倒述物の推理小説は、そうした難点から逃れている作品が多いんです。

K それはどうしてですか?

W やはり最初から犯人の出番も多いし、感情移入もしやすいんじゃないのかな。

K テレビの刑事ドラマで言うと、何が一番好きですか?

W ぼくはやはり「刑事コロンボ」ですね。23年前にNHKのBS放送で全作品を放映したので、全部録画しました。刑事ものが陥りやすい欠点がこの作品には感じられないんです。あれはラジオドラマでも出来ますね。コロンボと犯人が会話している場面がやたら多い。僕は、睡眠薬代わりに、画面を見ずに会話の音だけ聞いていると、寝入れることがよくあります。二人だけの会話がずっと続くのって、聞き取りやすいんですよね。普通の刑事ドラマのように多くの人が出てくると、シチュエーションの特定とかに余計な神経を使わなくてはならなくなる。

 コロンボと犯人の対決シーンが多いのは、シャーロックホームズにおけるワトソン、「盗まれた手紙」における「私」が不在であることも大きいでしょうね。コロンボは、別にひとりごと言うわけじゃないし。犯人だけが重要な他者で。だからコロンボと犯人の二人の関係が、すごく濃密になる。彼の話によく出てくる「うちのかみさん」や、親戚の子供が本当にいるのかどうかも怪しいですしね。単独者という性格が強く出ているので、単独者と単独者の対決という形が鮮明になる。ワトソン的人物がいないというのは、本当に興味深い点です。もちろん脇役としてでてくる刑事は何人もいますけど。

 たとえば、シャーロックホームズとワトソンだと、性格を分担しあいますよね。探偵と友人が似ていると言うことはまずあり得ない。そこから探偵によく見られる性格というのも出てきて、それを三島は「キザ」と評するわけですが。コロンボは助手や友人がいないから性格の幅も広がる。賢いんだけど、すごくずっこけたところを表現できるのも、彼が性格を他と分担しないからでしょうね。

 コロンボと古畑は、いろいろ似ていますが、そこのところは全然違う。コロンボは古畑、今泉という二人の刑事が合体したようなものです。ただ、古畑に出てくる今泉慎太郎という刑事のユニークさもたいしたもので、あれはあれですごいと思います。前代未聞、空前絶後というか。これまでの探偵小説の助手をすべてふっとばしちゃった。

K 古畑とは別に「今泉慎太郎」という短い番組もありましたね。僕はあっちの方が好きでした。古畑の悪口言ったりして。

W さっき、刑事もので一番好きな番組は「刑事コロンボ」だと言いましたが、テレビドラマに出てくるキャラクターすべての中で僕が一番好きなのは西村雅彦が演じる今泉慎太郎ですね。よくもまあ、あんな人間を作りあげることができたもんだと感心します。

K まあ、似てますよね、先生に。

W 似てません。



コンピュータ将棋について

W ところで話は変わりますが、以前からずっと気になっていたポーの作品が、もう一つあります。1836年に書いた「メルチェルの将棋指し」です。小林秀雄が抄訳して、のちに大岡昇平が全訳しています。現在では、東京創元社の『ポー全集』の第1巻で読むことができます。ここで言ってる「将棋」とはチェスのことですけどね。

小説ではなく、実際の出来事にポーが分析を加えた一種の論文です。19世紀のヨーロッパで、メルチェルという人が所有した自動で動くチェスの機械が、決して負けなかったという一件を扱っています。当時、大評判になったんだそうです。小池さんだったら、どう分析しますか?

K さあ。分析というか推理ですね。ああ、同じ事か。

W ポーは、機械の中に人が入ってると考えたんですね。ポーのすごいのは、その論拠を箇条書きの形で17個もあげている点です。本で2ページにわたる論拠もあるんですけど。理屈っぽいことが好きな人なんだなあ、とつくづく感心しました。

19世紀のことだし、たぶんポーの推理はあたっていて、中に人が入っていたんでしょう。本に絵も載っているんですが、結構大きな機械なんです。小林秀雄は、このポーの文章をもとに「常識」というエッセイを書いています。



機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反復運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。これは常識である。常識は、計算することと考えることとを混同してはいない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現している。

 (小林秀雄 「常識」より 『考えるヒント』 文春文庫 8ページ)



W 1959年というから、今から50年以上前に書かれたものですけどね。ここで小林は、ポーの考えを全面的に支持しています。機械、小林は電子計算器という言葉も使っていますが、それができるのは計算だけで判断や選択はできないから、将棋で人間に勝つなんてことはできないはずなんだというわけです。計算と考えることは全く別だと。

 同じようなことは、将棋の大山康晴名人も以前指摘していて、「将棋で人間に勝つコンピュータが出てくるかもしれないけど、それには丸ビル(東京駅前の大きなビル)くらいの大きさが必要だろう」と言っていました。

K 小林秀雄も大山名人も間違っていたということになりますか?

W そうですね。二人とも「思考の神様」みたいな人たちですが、それでも間違えた。チェスでは、かなり前から人間がコンピュータに勝てなくなっていますが、日本の将棋もだんだんそうなってきました。われわれアマチュアだけでなく、プロ棋士も勝てなくなってきたのですから驚きます。小林の言う常識が常識でなくなってきた。

 日本将棋連盟というのは、プロ棋士の唯一の団体です。そこの会長の米長邦雄元名人が、2011年に「ボンクラズ」というコンピュータと公式に戦って負けました。その顛末を書いた『われ敗れたり――コンピュータ棋戦のすべてを語る』という本が今年、出版されたんですけど、いろいろと興味深いことが書かれています。

 まず、噂としては以前から知っていたんですが、プロ棋士がコンピュータと、将棋連盟の許可なしに対局することは連盟が禁止している、と書いてありました。黒船来航におびえる江戸幕府みたいなもんで、外から見ていると、ちょっと滑稽なんですけど。

K へえ、面白いですね。

W アマチュアのネット将棋でも、コンピュータを横にもう一台置いて、指手をコンピュータに教えてもらって指すことは禁じられています。「ソフト指し」と言うんですが、それをすると、「永久出入り禁止処分」になるようです。それだけ、現在のコンピュータ将棋は強いんです。特に終盤が強くて、詰みのある局面は絶対に逃さない。何十手先までも読めて、即詰みに討取ってしまう。

K ネットなのに出入り禁止ですか。

W 接続できなくなるのかな、そのサイトに。米長さんの本で、もうひとつ面白かったのは、コンピュータ将棋の団体から対局を挑戦された時、受けて立つプロ棋士を見つけるのが難しかったというところです。結局、米長さんは自分で出ることになったのですが。中でも、羽生善治さんに断られたところの記述が興味深いんです。

羽生さんは前名人で、この230年、世界で一番将棋が強い人という評価を得ています。チェスも上手で、国際大会などで活躍しています。その羽生さんが、米長さんに、自分がコンピュータと指すのであれば、プロの公式棋戦を一年間、全部お休みにして、コンピュータ将棋の研究に没頭したい、と言ったそうなんです。

 これは、いろんな意味で驚きました。まず、羽生さんくらいになると、圧倒的に強いんだから「誰でも、どこからでもかかってきなさい」という横綱相撲で、相手が誰でも気にならないんじゃないか、相手の研究なんてしないんじゃないかと思っていました。でも、この記述を見て、案外そうでもないのかなと思いなおしました。「盗まれた手紙」で同級生の弾石をみんな取りあげちゃった小学生と同じで、相手のことを、常日頃、非常に深く研究しているんじゃないでしょうか。彼は若いころから「羽生にらみ」と言って、対局中の相手に鋭い視線を投げかけることでも有名だったんですが。いまでも、相手の棋士の長所や弱点を深く分析しながら将棋を指しているのかもしれません。そこは僕にとって、とても意外でした。

 もうひとつ、コンピュータが強くなってプロ棋士を脅かすような存在になってきた状況を、羽生さんをはじめプロ棋士の側がこれほど真剣に考え、苦慮しているということに、ちょっと感銘をうけました。

K これからどういうことが想定されるんでしょうか?

W 強いコンピュータ将棋はいくつもあって、それぞれ「ボナンザ」「ボンクラーズ」「激指」と言った個性的な名前がついています。どのソフトも独自の思考回路を持っていて、それぞれ違う手を指すんです。コンピュータ将棋同士の対局や大会も盛んに行われています。あと10年くらいたって、完全にオープンな将棋大会が、優勝賞金1億円で開かれ、プロ棋士、アマチュア、コンピュータすべてが自由に参加できるとなった場合、1位から100位の間に人間が一人も入れないという事態は十分に予測できると思います。

その時、「じゃあ、プロ棋士ってなんだ」「人間が機械に勝てない将棋というゲームってなんだ」という声が上がる可能性はたしかにあるのかもしれません。プロ棋士ではなく優勝したコンピュータがスターになるし、さらに進めば、プロ棋士とか将棋というゲーム自体の存続が危うくなる可能性もあるんではないでしょうか。いくら努力しても人間がコンピュータに勝てない将棋というゲームに人々が関心を失って。

普通のゲームは必勝法がみつかると、すたれていきます。将棋は奥が深くて必勝法が見つからないので、今まですたれなかったんです。でもこれからは、「人間が絶対に勝てないんで、すたれていく」ということも起こりえるんじゃないんでしょうか。

K すでに僕はあんまり興味ないですからね。

W 今の話は、なにも将棋にかぎりません。例えば、囲碁のコンピュータソフトは、今のところ、人間を脅かすほど強くはなっていません。囲碁は、これまで人間が考えだした最も難解なゲームだそうですから、さらに奥が深い。でも、将棋ソフトの歴史を見ていると、囲碁も同じ道をたどることは間違いないでしょう。何十年か遅れで将棋と同じことが起こる。

 もうひとつ、翻訳ソフトってありますね。最近のものがどうなっているのかは知りませんが、数年前まではほとんど使い物になりませんでした。単語は訳せても、最後に全くわけのわからない日本語が出てきちゃって。日本語が、それだけ難しいということなんでしょうけど。でもあれだって、人間をしのぐ日が来るかもしれない。どんな名翻訳者を持ってきても、正確さや日本語としての美しさで機械にはかなわなかったり、人間と同じ翻訳を圧倒的に短い時間でコンピュータができるようになったりして。そうなると、翻訳者という職業そのものが成り立たなくなる。

K そのあたり、結構、悲観的なんですか?

W いや、必ずしもそうではなくて、人間はこのあたりのことを上手にやりすごして、なんとか切り抜けていくだろうとは思っています。ただ、僕はコンピュータの進歩をバラ色一辺倒で考えてきた方なので、最近の将棋の話に不意打ちを食らって、すこしあわてているところではあるんです。 

 

すると男が、こう言った。

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より・・・・・」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。

 (夏目漱石 「三四郎」より)



W ちょっと唐突なんですが、上の引用は、夏目漱石の「三四郎」の冒頭部分です。「三四郎」は明治時代の青春小説の代表作みたいなもので、さわやかで僕はとっても好きなんです。今から104年前に書かれた作品ですが。熊本の高校を卒業して、東京の大学に入学するために列車に乗っていた主人公に見知らぬ男の人が話しかけてくる場面です。その男の人は、広田先生という高校の英語の教師で、東京で三四郎と再会することになります。ここの「日本より頭の中の方が広いでしょう」というセリフ、実にいいですよね。

 で、僕はインターネットが実用化された1995年以降の変化やコンピュータの進歩によって、人間の頭がより一層広くなったような気がしているんです。まわりの人を見ていても、自分のことを考えてみても。生まれたときからネットがある今の子どもは、当然、僕らより頭の中が広くなっている。これはとても良いことだし、将来に大きな希望が持てる。将棋や囲碁で人間が機械に勝てなくなるなんていうことは、それに比べたら些細なことに思えるんですが。小池さんはどう考えますか?

K さあ、どうでしょうねえ。あんまり暑くて、難しいことを考えようとすると、どうもこう、ぼーっとしちゃって。

W じゃあ、アイスクリームでも食べに行きましょうか。



                       (20128月 東京・大泉学園にて)





<参考・引用文献>

エドガー・アラン・ポー 盗まれた手紙(佐々木直次郎訳)(1844

――――――――――― モルグ街の殺人事件(佐々木直次郎訳)(1841

――――――――――― 病院横町の殺人犯(森鴎外訳)(1841

――――――――――― ウイリアム・ウイルソン(佐々木直次郎訳)(1839

芥川龍之介 ポーの片影

夏目漱石 三四郎 1908

(以上  青空文庫より)



エドガー・アラン・ポー メルチェルの将棋指し(小林秀雄・大岡昇平訳)ポー小説全集1 阿部知二編  東京創元社 19741836

エラリー・クイーン Yの悲劇(田村隆一訳)角川文庫 19611932

アイラ・レヴィン 死の接吻(中田耕治訳)ハヤカワ文庫 19761953

アガサ・クリスティー アクロイド殺人事件(中村能三訳)新潮文庫 19581926)  

小林秀雄 常識 『考えるヒント』 文春文庫 20041959

三島由紀夫 推理小説批判 三島由紀夫評論全集1  新潮社 19891960

米長邦雄 われ敗れたり――コンピュータ棋戦のすべてを語る 中央公論新社 2012 

刑事コロンボ完全事件ファイル (別冊宝島973)宝島社 2004

サキ ザ・ベスト・オブ・サキ<1><2>(中西秀男訳) ちくま文庫 1988 

渡部真・小池高史 インターネットとユースカルチャー 『ユースカルチャーの社会学――対話篇』書肆クラルテ 2011 

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