2013年9月18日水曜日

第36章 道楽と職業

--道楽と職業」は、作家の夏目漱石が1911年(明治44年)に兵庫県の明石で行った講演を文章化したもの。科学者、哲学者、芸術家の仕事は、道楽の要素を含んだ自己本位的なものでなければ、うまくいかないことを主張している。(まとめ・渡部)--

W 今回は夏目漱石の講演「道楽と職業」です。漱石は1910年前後に、何度か講演をしていて、青空文庫にも「私の個人主義」「現代日本の開化」「中身と形式」「教育と文芸」「文芸と道徳」「無題」「文芸の哲学的基礎」などが入っています。小池さんは、この中で何か読んだこと、ありましたか?
K 最初の二つ、「私の個人主義」と「現代日本の開化」は聞き覚えがありますね。きっと読んだことがあると思います。
W どの講演も、今聞いたとしても、全然古ぼけてない題材を扱っています。100年経っても、寿命が尽きてないテーマばっかりです。
K まあ、「無題」はテーマがないので何ともいえませんが。
W 以前、このブログで取り上げた「野分」という小説の中では、主人公の白井道也という若者が講演をするところがあって、これが、いかにも漱石が喋りそうな内容でしたし、ヤジや拍手の描写まで入っていて、とてもスリリングでした。
K そうでした。あそこはよかったですね。

私は職業の性質やら特色についてはじめに一言を費やし、開化の趨勢上その社会に及ぼす影響を述べ、最後に職業と道楽の関係を説き、その末段に道楽的職業というような一種の変体のある事を御吹聴に及んで私などの職業がどの点まで職業でどの点までが道楽であるかを諸君に大体理会せしめたつもりであります。これでこの講演を終ります。
                    (夏目漱石「道楽と職業」より)

K あれ、終わっちゃいましたよ。
W 最後の所をまず持ってきました。しゃべった内容を漱石本人が上手に振り返って、全体をまとめているんです。
 以前、推理小説はうしろから読むと面白いと言った事がありましたけど、僕は最近いろんなものをうしろから読みますね。最後から読んでもいいし、最後だけ読むのも面白い。この間も青空文庫に入ってる漱石の小説の最後の部分だけ、まとめて読みました。ぜんぶで20数編あったけど、それほど時間もかからなかった。
K 最後の部分って、どうやって決めたんですか?
W たとえば「道草」という小説は、朝日新聞に掲載された小説で、全部で102回に分かれているんです。そして、それぞれの回に番号がついてる。僕はこの小説好きで、何度も読んだことあったんですけど、今回は、最終回と言うか、第102回だけ読みました。そういうやり方で、漱石の全部の小説を読んでみました。もちろん、95回とか98回から始めても良いんですけど。
K 変わった読み方ですね。
W 回数のついてない作品は、大体最後の5%ぐらいを読んだんですが、なんとなく、漱石の小説の全体像がつかめた感じがしました、短時間で。実は、小説の最初の部分を取っても、ど真ん中の部分をとっても良いんですけど。102回中の51回目とか。やはり最後のところが印象的ですね。内容が白熱してる。遺作の「明暗」は未完で終わってますけど。
最後の部分を全部読んだあと、印象に残った小説をゆっくりもう一度、全部読んでみる方法も良いと思います。青空文庫ならではのやり方ですね。
K なるほど。贅沢な楽しみ方ですね。

 道楽と職業、一方に道楽という字を置いて、一方に職業という字を置いたのは、ちょうど東と西というようなもので、南北あるいは水火、つまり道楽と職業が相闘うところを話そうと、こういう訳である。
           (夏目漱石「道楽と職業」より)

現に私の知っている者のうちで、一年以上も下宿に立て籠って、いまだに下宿料を一文も払わないで茫然としている男がある。(中略)私も多少知っている間柄だから気の毒に思って、職場は無いか職業は無いかぐらい人に尋ねて見るが、どこにもそう云う口が転がっていないので残念ながらまだそのままになっています。
           (夏目漱石「道楽と職業」より)

W 講演の最初のところは、雑談のようないろんな話題から入っていますが、「道楽と職業」というこの時の主題についても、さりげなく触れています。
K 講演特有の最初のグダグダした感じがそのまま読めていいですね。
W 道楽という言葉、今だと趣味に近いんでしょうけど、良い言葉ですよね。何か、ほっとすると言うか。趣味は道楽より、硬い語感がある。
K 「ご趣味はなんですか?」って人に聞いても、「ご道楽はなんですか?」とは聞かないですもんね。
W あはは、そうですね。なんか悪いことというか、うしろめたいことをやっているという感じが好きだなあ。「道楽」だけじゃなくて、「道楽者」も良いですね。特殊な事に淫しているという感じで。
それから、上で引用したところで、この1910年当時、大学生の就職が大変だったということを漱石は述べています。よく、明治時代の大学生は数が非常に少なくて、大変なエリートだったという話ばかり聞くものだから、この話にはちょっとびっくりしました。「野分」という作品にも同じような話が少し出てきましたが。
K 時代は20年くらい違いますが、小津安二郎に「大学は出たけれど」って映画がありましたね。
W 歴史って、細かくきちんと見ていかなきゃ駄目ですよね。大雑把な流れだけで見ると間違える。小津監督には「生まれてはみたけれど」って作品もありました。

 そこでネ、人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導くとかとか精神的にまた道義的に働きかけてその人のためになるという事だと解釈されるとちょっと困るんです。人のためにというのは、人の言うがままにとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、もっと手短かに述べれば人の御機嫌を取ればというくらいの事に過ぎんのです。人にお世辞を使えばと云い変えて差支ないくらいのものです。
(夏目漱石「道楽と職業」より)

W 次に「人のため」「自分のため」という話が入ってきます。ここのところも大変に意表を突かれるんですけど、漱石は「人のため」を「人の御機嫌を取る」「人にお世辞を使う」という意味に使うんだと言うんです。「自分のため」は、そういう事のない状態です。
K 最初に言葉の定義とか、いろいろ説明しておく必要がありますね。
W 僕なんか、「人のため」「自分のため」という言い方を、まさに漱石が使っていたように使いたいわけですけど、なかなか、世間が承知してくれない。「自分のため」ばかり言うのは、エゴイストじゃないかって言われちゃう。
K 「人のため」っていうのは、常に「人の御機嫌を取る」ということだということですか?
W もちろん、この言葉には、良い意味、悪い意味、両方あるんでしょうが、良い意味で使われる事が多い。でも漱石は「そういう意味で使っているわけではないんだ」と言いたいんじゃないのかな。 

あなた方は博士と云うと諸事万端人間いっさい天地宇宙の事を皆知っているように思うかも知れないが全くその反対で、実は不具の不具の最も不具な発達を遂げたものが博士になるのです。それだから私は博士を断りました。しかしあなた方はーー手を叩いたって駄目です。現に博士という名にごまかされているのだから駄目です。(中略)内情を御話すれば博士の研究の多くは針の先きで井戸を掘るような仕事をするのです。深いことは深い。掘抜きだから深いことは深いが、いかんせん面積が非常に狭い。それを世間ではすべての方面に深い研究を積んだもの、全体の知識が万遍なく行き渡っていると誤解して信用をおきすぎるのです。(中略)自分の専門にしていることにかけては、不具的に非常に深いかも知れぬが、その代り一般的の事物については、大変に知識が欠乏した妙な変人ばかりできつつあるという意味です。
                    (夏目漱石「道楽と職業」より)

W 話が少し、違う方向に行ってますが、このあたりどうですか?
K いや、まあそうでしょう。大学院に進学することを「入院」するっていいますしね、僕らのまわりでは。
W 上の引用の「手を叩いたって駄目です」というところ、面白いですね。この少し前に、漱石は文部省から博士号を授与されて、「貰わない」、「辞退は認められない」で大騒動があったんです。
講演を文章化したものって、出来るだけ講演そのものに近づける記述と、かなり省略したりアレンジしたものに分かれますが、この「手を叩いたって駄目です」なんかを見ると、この作品は前者ですね。一つ前の引用の「そこでネ」という記述もその一例です。僕はこういう講演記録の方が好きですね。

よく人が商売となると何でも厭になるものだと云いますがその厭になる理由は全くこれがためなのです。いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ないが、その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽がたちまち苦痛になるのはやむをえない。打ち明けた御話が己のためにすればこそ好なので人のためにしなければならない義務を括りつけられればどうしたって面白くは行かないに決まっています。元来己を捨てるということは、道徳から云えばやむをえず不徳も犯そうし、知識から云えば己の程度を下げて無知な事も云おうし、人情から云えば己の義理を低くして阿漕な仕打ちもしようし、趣味から云えば己の芸術眼を下げて下劣な好尚に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾きやすいから困るのである。
                (夏目漱石「道楽と職業」より)

W さっき、「人のため」を「人の御機嫌を取る」「人にお世辞を使う」と言い変えた漱石ですけど、ここでは「己を捨てる」を「十中八九の場合悪い方に傾きやすい」と言っています。このあたりも僕はとても新鮮でした。今の社会では、「人のため」とか「己を捨てる」って、とてもいい事のように言いますものね。又、そういう方向に向かって若い人が教育されてしまう。
それから、この引用の前後で、仕事の困難さを言っているところも興味深かったです。
K そうですか。よく言われることだと思いましたけど。なんでも仕事にしてしまうとつまらなくなるっていう。

ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別な一階級とでも看做す(みなす)よりほかに仕方がないのです。

すでに御話をした通りおよそ職業として成立するためには何か人のためにする、すなわち世の嗜好に投ずると一般の御機嫌を取るところがなければならないのだが、本来から云うと道楽本位の科学者とか哲学者とかまた芸術家とかいうものはその立場からしてすでに職業の性質を失っていると云わねばならない。実際今の世で彼らは名前には職業として存在するが実質の上ではほとんど職業として認められないほど割に合わない報酬を受けているのでこの辺の消息はよく分るでしょう。現に科学者哲学者などは直接世間と取引しては食って行けないからたいていは政府の保護の下に大学教授とか何とかいう役になってやっと露命をつないでいる。
                (夏目漱石「道楽と職業」より)

W ここでは、科学者、哲学者、芸術家の特殊性を言っています。「露命をつないでいる」って、言い得て妙ですね。しみじみしちゃいます。今でもそうだけど。まさに、道楽的職業。
K どうしたって、人のためにやってるってことにはならないですもんね。口ではうまく言えても。

以上申し上げた科学者哲学者もしくは芸術家の類が職業として優に存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは明かなようであります。なぜならばこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉の脱殻同然で、ほとんど役に立たない。自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠るはずがない。すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。私は芸術家というほどのものでもないが、まあ文学上の述作をやっているから、やはりこの種類に属する人間と云って差支ないでしょう。しかも何か書いて生活費を取って食っているのです。手短に云えば文学を職業としているのです。けれども私が文学を職業とするのは、人のためにするすなわち己を捨てて世間の御機嫌を取り得た結果として職業としていると見るよりは、己のためにする結果すなわち自然なる芸術的心術の発現の結果が偶然人のためになって、人の気に入っただけの報酬が物質的に自分に反響して来たのだと見るのが本当だろうと思います。
 (夏目漱石「道楽と職業」より)

W 「己の無い芸術家は蝉の脱殻同然で、ほとんど役に立たない」って本当にそうだと思うなあ。研究者や学者も同じです。
K でも、役に立たないものほど受け入れられるということもあります。


芸術家とか学者とかいうものは、この点においてわがままのものであるが、そのわがままなために彼らの道において成功する。他の言葉で云うと、彼らにとっては道楽すなわち本職なのである。彼らは自分の好きな時、自分の好きなものでなければ、書きもしなければ拵えもしない。至って横着な道楽者であるがすでに性質上道楽本位の職業をしているのだからやむをえないのです。そういう人をして己を捨てなければ立ち行かぬように強いたりまたは否応なしに天然を枉(ま)げさせたりするのは、まずその人を殺すと同じ結果に陥るのです。

私ばかりではないすべての芸術家科学者哲学者はみなそうだろうと思う。彼らは一もなく二もなく道楽本位に生活する人間だからである。大変わがままのようであるけれども、事実そうなのである。したがって恒産のない以上科学者でも哲学者でも政府の保護か個人の保護がなければまあ昔の禅僧ぐらいの生活を標準として暮さなければならないはずである。
 (夏目漱石「道楽と職業」より)

W 科学者や芸術家は道楽ものでないと成功しないって、その通りだと思います。前に、森鴎外の「沈黙の塔」が出て来て、「学問も因襲を破って進んでいく」「懐疑が修行で、虚無が成道である」と言うところがあったけど、漱石の「己を捨てない道楽者」という心構えも、とても大事な事でしょうね。
K 文化よりも遊びが先、上位にあるっていったのはホイジンガですね。
W こうした漱石や鴎外の観点から見ると、今の学問・研究や大学は大きな危機にあると思います。
K それは、どういうことですか?
W たとえば、現在の大学には、「大学の学校化」を推し進めようという傾向があります。一言でいうと、大学を中学校や高校みたいにしたいという動きで、大学生には真面目に勉強するように、きちんと授業に出るようにと強く働きかけます。道楽で勉強するんじゃなくて、学生の本分として、仕事として勉強するように強いるわけです。
 ただこれは、大学生にだけ強いているわけではなくて、大学教員に対しても強い締め付けが出て来ています。僕は今の大学に勤めて、今年でちょうど30年目ですが、「道楽としての研究」「道楽者としての研究者」という性格は上からの圧力で、どんどん薄れてきているように思います。残念なことですが。
 それから、科学者、哲学者、芸術家以外でも、道楽の要素を含んだ方が、本当はうまくいく仕事って、実は沢山あるんじゃないのかなあ。仕事の内容や勤務時間をもっと自由に考えていく方向が取れたら良いのにと思いますけど。
 
「話をすること」と「聞くこと」について
W ところで今回の作品は、漱石が実際に明石で行った講演を活字に起こしたものですが、どう思いましたか?
K ええ、臨場感があって面白かったですよ。
W 「話が上手か下手か」で言うとどうですか?
K 話の上手い下手って考えると、どうしても声とか抑揚とかっていう話し方も大きいと思うので、何とも言えませんが、文字を見る限りでは上手なほうだと感じましたけど。
W なるほど、声とかしゃべり方といった問題がありますね。僕も活字の上からだけみると、とても話の上手な人だなと思いました。内容豊富な話を、とてもわかりやすくしゃべっている。句点(。)から句点(。)までを「一つの文」と考えると、この文章は数百の文からできていますが、102年後の日本人が読んで、意味不明と言うか、何を言っているのかわからないような文が一つもない。これはたいしたものだと思います。明晰でわかりやすい。
K まあ、でも修正してると思いますよ。
W たしかに、それはあるかな。文章の専門家だし。ただ内容について言うと、そう簡単には誰もが賛成しないような重たい意見を、説得力を持って、はっきり言い切っています。
K 当時の地方の風潮として、これが全く受け入れらないような意見だったのかどうか、気になりますね。
W そこはよくわかりません。僕は漱石の言ってることに、殆ど全部賛成ですけど。
K 同意です。
W 小池さんは、人前で30分とか、1時間とか一人でしゃべるのって得意ですか?
K ええ、好きですよ。
W へえ、そうなんだ。書くことと、同じ内容をしゃべることでは、何が違いますか?
K 自分の場合は、最初しゃべるように書きますね。で、書き物の場合はそこから穏やかなほうに修正します。
W それは知らなかった。いろいろと工夫してるんですね。僕は人前でしゃべるの、本当に下手なんですよね。苦節60年、上手だって言われた事は多分一度もないな、残念ながら。どうしてなんだろう?
K 話しているときに前を向けないからですね。
W 「向かない」じゃなくて、「向けない」からですか。次の引用は、文芸評論家の小林秀雄が書いたものです。ここにでてくる菊池さんというのは先輩の作家、菊池寛のことです。

僕の講演が受けなくって、がっかりしていると、聞いていた菊池さんは笑ってこんな事を言った事がある。「君みたいに話の筋を無理に通そうとしたって駄目だよ」。成る程、あの人の話を聞いていると、そこはもう自在なもので、例えば、暫く黙っていたかと思うと、突然、「ええ、源義経という大将は、なかなか面白い大将でして・・・・」という様な事を言う、前の話と何んの関係もない。だが、そう言われてみれば、聴衆の方は源義経の事ばかり考え、前の方は忘れて、さきに進んでくれるから、別段仔細はない。又、話に詰まれば、「伊達政宗という人は・・・」とやればよい。講演者がさきへさきへ進むのに、立ち止って考え込むわけにはいかない。観衆は自分の時間というものを持っていない。たまたま持つ者がある。彼はあたりを見廻して欠伸をしています。実際、われに還った時、欠伸の出ない講演会なぞ先ずないと言っていいでしょう。人々が共通の目的を持って一同に会すれば、必ずその場の雰囲気に支配される。講演を楽しもう、せっかくやって来たのだから面白がらなくては損だ、という集団心理の協力が先ずなければ、講演者は何一つ出来る筈がない。まあ講演にもいろいろあるだろうが、私の経験した文芸講演会などはみなこの手です。それで受けないのだから、よっぽど話が下手なわけだ。
(小林秀雄「喋ることと書くこと」『考えるヒント 3』文春文庫 1976 より)

W 漱石と菊池寛の講演の手法は大きく違うと思います。話の筋を大切にするやり方と、トピックからトピックに飛んでいく方法。また、小林秀雄も、けっして喋るのが下手な人だったわけではなかった。新潮社から、講演のテープやCDが出ています。菊池寛の講演方法ってどうですか?
K そっちのほうが高度だと思います。
W ああ、そうですか。書く事にくらべると、人前で30分とか1時間喋るのは、いろいろと困難な条件が重なります、だれがやっても。
まず聞き手は、話の内容を眼で追う事が出来ない。レジュメとか、話す内容を要約したものが配られていれば、まだいいですけど。でも、文章自体を読むのよりは難しい。
小林の言う「観衆は自分の時間というものをもっていない」というのも大事なポイントです。話をしている相手のスピードに自分を合わせなきゃならない。自分の存在を出来る限り小さくして、喋り手と自分を一体化させる必要がある。本を読む場合は、本を自分に引き寄せるわけですけど、人の話を聞く時は、話に自分が引き寄せられる。
これはなかなか大変なことです。無私の精神が必要というか。我儘な人というか、強固な自分を持ってる人には、なかなかできない。それこそ、あたりをみまわして、欠伸をすることになる。
K 時間といういい方は面白いですね。自分の時間ですか。
W そう。自分の時間。もともと聞く事を人に強制してるんだから、菊池寛の言うように、「君みたいに話の筋を無理に通そうとしたって無理だよ」ということになる。書く形態ならできても、喋る形態では、なかなか相手に伝わらないということがしばしばおこります。もちろん聞き手が、話し手自体や話し方に大きな魅力を感じていれば、話に聞き入るということもおこるんでしょうけど。
K そんなに肩肘張らずにやりましょうってことですかね。
W それに、話の内容も大事ですよね。聞き手が興味を持ってくれる話が必要というか。次の引用は、イギリスの作家、サキという人の「話し上手な男」という短編小説の最後のところです。

 「今のお話、始めの方はつまらないけど、終りのところが素敵だわ」
 「こんな面白いお話、わたし初めてよ」と姉むすめがいった。絶対的な断定である。
 「これまで聞いたお話で面白かったのは今のだけだね」とシリルが言った。
 子供たちの世論に対して伯母さんの口から異論が出た。「幼い子供に聞かせるのにそんなふまじめな話ってあるもんですか。せっかく何年も気をつけて教えこんだのがすっかり駄目にされましたわ」
 「しかしですね」と、ひとり者の男がいった。今度の駅で下りようと手荷物をまとめかけている。
 「とにかくぼくは十分間だけ子供たちを静かにしておきましたよ。とてもあなたには出来っこありませんな」
 「気の毒だな、あの伯母さん」とテムプルコート駅のプラットホームを歩きながら、ひとり者の男はつぶやいた。「これから半年ぐらい、人前だろうと何だろうと、ふまじめなお話きかせてえ、とせがまれるだろう!」
(サキ「話し上手な男」『ザ・ベスト・オブ・サキⅡ』 ちくま文庫より)

W サキは19世紀から20世紀の初めにイギリスで活躍した作家です。短編小説ばかり書きました。僕の場合、高校時代の英語の教科書に「開いた窓」という小説が載っていましたが、それ以来のお気に入りです。日本語にも、いろいろと翻訳されていますが、僕はこの中西秀男さんの訳がいちばん好きです。
 この「話し上手な男」というお話ですが、三人の小さな子どもと伯母さんの4人連れが、見ず知らずの男と汽車で一緒になります。子どもたちが騒ぐので、伯母さんはお伽話をして、静かにさせようとするのですが、ありきたりな話で、子どもたちは全く聞こうとしません。そこで、赤の他人の男が話をはじめると、子どもたちは、その話に引き込まれていきます。
K その男の話は、どんな内容なのですか?
W 一言で言ってしまうと、バーサという、とても性格の良い女の子がいて、良い子であるがゆえに狼に食べられてしまうという、ちょっと残酷な話です。
K それだとありきたりではないですね。
W 僕は以前、この小説についての文章を書いたことがありました。「この伯母さんと男の話は何が違うのか」というところがポイントでしたが、伯母さんの話には無くて、男の話にはある点を10個上げてみました。
 それは、「話の具体性(詳細さ)」「問答性(子どもの質問に正面から確実に答える)」「即興性(子どもの反応を見てから、その先の話の展開を考える)」「反道徳性」「残酷性」「真実性(本当らしさと合理性)」「意外な展開」「上手に嘘をつく才能」「ユーモア」「断定性」
でした。
K どっかで読んだような気がします。
W この、ちくま文庫版のサキの作品集、2巻本ですが、最近は電子書籍でも読めるようです。
K 上の10の点を、何か実際に応用する事は出来ないんでしょうか?
W 大学の授業とかに応用できたら面白いですよね。「大学生が授業聞いてくれない」とか「うるさくなって困る」とか大学教員はよく言いますが、学生には学生の言い分があるんですよね、きっと。一言でいえば「面白くないから、聞かないんだ」ってことでしょう。サキの小説と同じ構図です。
さっき話したように、「一人の人間が長々としゃべっている話を聞く事のむずかしさ」という問題もあるんでしょうが。90分授業だと、短い映画一本分ですものね。そりゃあ、話す方も聞いてる方も大変です。
K 大学の授業に使えそうな方法ってありますか、さっきの10点で?
W 僕も失敗ばかりしてきました。でも、中ではうまくいった方法が一つあって、これは今でもやっています。授業の1回目に出席カードを配るんですが、その裏にクエスチョンマークで終わる1行の文を3つ書いてもらいます。100人学生がいると疑問文が300個集まるわけですけど、次の時間から、その内容を一覧表にしてきて、その質問に答えていきます。
K シラバスはどうなってるんでしょうか?
W もちろん、シラバスに沿った話もしていますよ。この、学生の質問に答えるやり方は、もう10年以上続けています。いろんな大学でやった事がありますが、どこでも、話を聞いてくれることが多かったですね。
やっぱり「学生の人が聞きたい事をしゃべるのが一番良いんだ」と思うんです。教員のしゃべりたい事と、学生が聞きたい事って微妙にずれるんですよね。特に、教員が面白いと思っているのに、学生は面白くないと思う事が多くあるようです。
K 答えのわからない質問が書いてあったらどうするんですか?
W その時は、「わかりません」と言えば良い。この方式は、サキのところであげた「問答性」「即興性」もあります。それに、「この場にいる誰かの質問なんだ」という事になると、聞いてる人を味方に出来るというか、小林秀雄の言う「集団心理の協力」を期待する事も出来ます。最初に、去年出た質問の一覧表なんて配っておくと、それ以上のものを書いてくれますね。
K 講師が講演に来て、何の準備もしていなくて、最初に質問を聞いて、言われたことをその場でパワーポイントに打ち込んで、それをテーマに話し出すという講演会に出たことがあります。それに似てますね。
W ああ、そういうやり方もあるんだ。あとこの質問回答方式は、「一つの話がすぐ終わる」ところも良いと思ってます。講義を聞いてる学生は、「早く次に行ってほしい」「一つの話が長すぎる、くどいよ」と思っていることが多いんです、きっと。何でもスピードが速くなっているのに、大学の授業だけは、やけにゆっくり。眠たくもなろうというもんです。
 それに、菊池寛の講演のように、前後の関連を考えなくていい。普通の書き方じゃなくて「箇条書きの方法をしゃべりに応用する」と言えるかもしれません。
K なんだか成功体験談になってきてますね。
W まあ、授業の方法については、僕の場合これ一つだけだから、勘弁してください。それに学生の人の質問って、おもしろい内容が多いんですよね。こっちの盲点と言うか、思いつかないことを聞いてくるんで、すごいなあと思うことがしばしばあります。「冴えてる」っていうのかな。
K それは僕もよく感じます。口頭で聞く質問よりも書いてもらう質問のほうがいいですね。
W 大学生の場合「口頭だと、恥ずかしい」というのもあるでしょうね。「教師に向かって立派なこと言うと、友達に対して恥ずかしい」というような。小中学生とは違います。
最近の「逸脱行動の社会学」という授業では、次のような学生の質問を取り上げました。「普通とは何か?誰が決めたのか?」「自殺するのは悪い事か?」「警察が犯罪を犯した場合、普通より重く罰せられるべきか?」「嫌いな人間に対しては、意図的に冷たくしても良いのか?」「自分の時間って、どのくらい必要でしょう?」「冤罪はなくならないのか?」「なぜ大人や年配の人は傲慢になるのですか?」「死刑制度がある国とない国があるのはなぜか?」「若気の至りとはなにか?」「ギャンブルで破産までしてしまう人の心理状態はどんな感じか?」これでちょうど10個です。
K どれも答えるのが難しそうですね。
W そうでしょ。僕も1週間、考えるんですよ、答えを。
最後に、喋る側ではなくて、聞く側になった時の話をしましょうか。小池さんは、そのあたりどうですか?
K 聞く側というと?
W 100人以上の会議とかで、自分はまずしゃべらないような状況にいる時とか。僕は、一人の人の長い話、聞くのって駄目なんですよね。すぐ退屈しちゃう。人の話は、聞いてないことの方が多い。子供の頃からですけどね。
K その点は僕も似たようなもんです。
W どうも、僕は駄目な事ばっかりで困るんだけど。それでね、最近、人の話を上手に聞く良い方法を編み出したんですよ。作りだすのに60年かかりました。聞いてくれます?
K しょうがない。
W 前に、「2段落1チェック方式」って、喋ったことがあったじゃないですか。「本に書いてあるものを読むとき、2つの段落をペアにして、どちらの段落が自分にとって重要なのかをチェックしながら読む方式」ですが。この方法は、もう10年くらいやっていますが、とても本を読みやすくなりました。無理でもなんでも、二つのうちから一つ選ぶんです。一つ一つに○×つけたり、5点から1点まで点数付けるのと比べても、とても緊張感をもって本を読む事が出来ます。選ばない限り、前に進めないんで、読む行為にすごく前向きというか、積極的になれます。
この本の読み方はいろいろ応用がきいて、テレビで流れる2つのCMのどちらかを選んだり、展覧会で、並んでいる2つの絵のどちらか一つを選びながら見て行くこともできます。
K このやり方を、人の話を聞く時にどう応用するんですか?
W さっきも言ったけど、人の話を聞くのって、不利な条件がいろいろと重なってるんですよね。段落も無いというか、眼に見えないし。人の話に段落をみつけるなんて事はとても難しくて出来ません。
そこで、段落じゃなくて、句点(。)を見つけるんです。これが、けっこう厄介なんですが、何度かやっているうちに慣れてきます。話をしてる人の文の切れ目をみつけると言うことですね。そのあと、本を読む時の段落と同じように、2つの文のうち、自分にとってはどちらが重要かを選びながら話を聞くんです。
K やってみてどうでしたか?
W まだ、この方法を思いついて3カ月ぐらいしか経ってないんですが、何回か試してみました。この間、勤務先で一人の人が30分以上しゃべっているのを聞く会議があったんでやってみたら、以前よりは、なに言ってんのかが、わかりました。
K ああ、今まではわかってなかったんですね。
W 歌詞のある歌も、最近、この方法で聞いています。頭の中で句点(。)を付けて、2つの文から1つを選ぶ。これまでメロディーだけ聞いていたのが、詩の内容まで頭に入ってくるようになりました。
小池さんも是非、一度やってみて下さいよ、そう嫌がらないで。タダなんだから。
K 考えときます。

                 (20139月 東京・大泉学園にて)

<参考・引用文献>
夏目漱石 道楽と職業 1911
―――― 私の個人主義 1914
―――― 教育と文芸 1911
―――― 現代日本の開化 1911
―――― 文芸と道徳 1911
―――― 中身と形式 1911
―――― 無題 1907
―――― 文芸の哲学的基礎 1907 
―――― 野分 1907
―――― 道草 1915              
―――― 明暗 1916
森鴎外  沈黙の塔  1910
(以上  青空文庫より)

小林秀雄「喋ることと書くこと」『考えるヒント3』文春文庫、1976
サキ  「話し上手な男」『ザ・ベスト・オブ・サキ Ⅱ』(中西秀男訳)ちくま文庫、1988    

渡部真 「『青少年問題』という視線-サキ『話し上手な男』を題材に」『私説・教育社会学』世界思想社 2010 

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