2013年12月16日月曜日

第39章 大導寺信輔の半生――或精神的風景画


--大導寺信輔の半生」は、作家の芥川龍之介が1925年(大正14年)に雑誌「中央公論」に発表した短編小説。自伝的な色彩が強く、「本所」「牛乳」「貧困」「学校」「本」「友だち」の6つの章からできている。当時、芥川は33歳であったが、2年後の1927年(昭和2年)に服毒自殺した。(まとめ・渡部)-- 

W 今回は芥川龍之介の「大導寺信輔の半生」です。「或精神的風景画」という副題がついています。芥川の作品は、現在、青空文庫に369点入っています。この小池さんとのブログでは、第21章で「猿蟹合戦」を扱いましたから、2度目ですね。
K 猿蟹合戦はそんなに前でしたか。時間がたつのは早いですね。
W この「大導寺信輔の半生」、芥川の晩年の作品です。岩波文庫で20ページですから、典型的な短編小説なんですが。この作品、小池さんはどう思いました?
K かなり以前に先生に勧められて読んだことがありましたが、好きな小説です。暗い自伝ということで、面白いです。
W 文芸評論家の吉本隆明さんが、この小説の基本的な性格について次のように書いています。

 周知のように芥川は「大導寺信輔の半生」という虚構が半ば壊れかかった自伝風の作品を書いた。「大導寺信輔の半生」といわずに「私の半生」と題し「彼」と書かずに「私」と書いたとしても作品構成上はすこしも不都合を生じない。また、すべての自伝が、その折の粉飾と誇張と主観によって方向づけられるのが当然であるとすれば、この作品にみとめられる程度の粉飾と誇張と主観的な色づけは自伝につきものと解してすこしも逸脱を生じない。
(吉本隆明『悲劇の解読』「芥川龍之介」  筑摩書房  152-153ページより)

W芥川が死の前に書いた自伝ということですね。それにしては、少し短いんだけど。作品の最後には、次のような附記がついています。

附記 この小説はもう三四倍続けるつもりである。今度揚げるだけで「大導寺信輔の半生」という題は相当しないのに違いないが、他に替る題もない為にやむを得ず用いることにした。「大導寺信輔の半生」の第一篇と思って頂けば幸甚である。大正十三年十二月九日、作者記
         (芥川龍之介「大導寺信輔の半生」より)         



W でも、続きは書かれずに自殺してしまいました。
K 本当に続きを書く気があったのか、そのあたりのこともわかるといいですね。
W この後に書かれた「或阿呆の一生」は、だいぶ形を崩した、もう一つの自伝だと思いますけど。51の断章からできています。

芥川は、おそらく中産下層階級出身のインテリゲンチャたる宿命を、生涯ドラマとして演じて終わった作家であった。彼の生涯は、「汝と住むべくは下町の」という下層階級的平安を、潜在的に念願しながら、「知識という巨大な富」をバネにしてこの平安な境涯から脱出しようとして形式的構成を特徴とする作品形成におもむき、ついに、その努力にたえかねたとき、もとの平安にかえりえないで死を択んだ生涯であった。
     (吉本隆明 「芥川龍之介の死」より)

W 芥川は、東京下町のあまり裕福でない家に生まれ育ちました。「知識という巨大な富」というのは、彼が子供のころからずっと、大変に知的で優秀で、さまざまな本を読んでいたことですね。「形式的構成を特徴とする作品」というのは、昔の文献や人物・事件をもとに、芥川が自分の主観をこめて話を作り上げた作品群です。「羅生門」や「」から始まって、たくさんあります。短編小説が多くて、以前取り上げた「猿蟹合戦」もその一つでした。
でも、死の数年前から、そうした形の整ったお話ではなくて、芥川本人を主人公にした小説が増えてきます。どこか投げやりで、死にとらわれているような作品が多いんです。ニヒリズムとかデカダンスという言葉が浮かびます。今回の「大導寺信輔の半生」はその代表作の一つです。他に「歯車」「或阿呆の一生」「蜃気楼」なんかがありますが、僕はどれも大好きです。
K 作家が自分を主題にしだすということは、ある程度その作家自身の名が売れて、作家の人生が他人に興味を持たれるものになってきたということでもあるんでしょうかね。
W それもあるかもしれないけど、実生活のことも含めて、彼がだんだんと追い詰められてきて、吉本さんの言う、形式の整ったお話を作ることがつらくなってきたからじゃないかしら。そこで、追い詰められてきた自分を題材に、作品を作るようになった。
K そうですか。
W この小説、6つの章からできていますが、前半、後半と大きく2つに分けることも出来ると思います。「本所」「牛乳」「貧困」が前半で、芥川が東京で生まれてから、主に小学校の頃までの生活が描かれています。吉本さんの「悲劇の解読」の芥川龍之介の章では、彼の生涯を振り返る時に、非常に重要な箇所として取り上げられています。自分の家が貧しく、そのため子ども時代に屈辱的な経験をいろいろしたことが、この3つの章では描かれています。
 後半の3つの章、「学校」「本」「友だち」は、主に、中学校に入ってから大学を卒業するまでのことに触れられています。中学校というのは、今はない旧制中学という5年制の学校で、12歳から1718歳の人を対象としていました。今の中学と、高校を合わせたようなものです。旧制高校と旧制大学が今の大学にあたります。
K いちおう知っています。
W 今日は主に、この後半の3つの章、「学校」「本」「友だち」についてふれてみたいと思います。

 学校も亦信輔には薄暗い記憶ばかり残している。彼は大学に在学中、ノオトもとらずに出席した二三の講義を除きさえすれば、どう言う学校の授業にも興味を感じたことは一度もなかった。が、中学から高等学校、高等学校から大学と幾つかの学校を通り抜けることは僅かに貧困を脱出するたった一つの救命袋だった。
  (芥川龍之介「大導寺信輔の半生」四 学校 より)

W 上の引用、「学校」という章の冒頭部分です。短いけれど大変に重要なことが書かれています。僕はとても興味深く読みました。
大学の23の授業をのぞけば、「どう言う学校の授業にも興味を感じた事は一度もなかった」と言いきっているんです。優秀だったり知的であることと、学校の授業をおもしろく感じるかどうかは別の話なんですね。優秀だったり知的であるからこそ、面白く感じられないと言うことも、あったのかもしれない。でも、この言い切り方は凄いなあ。
K それはそうです。学校や大学の授業が誰にとっても面白くないのは、普遍的なことです。
W やっぱり、そうなんですよね。今の教育をめぐる議論で、一番欠けているのは、そのあたりの認識じゃないかしら。生徒や学生は、だれでも授業が嫌いだったり、聞いてなかったりするんだけど、そこのところには、なぜか目をつぶる。認めることが出来ない。でも、芥川龍之介に「どう言う学校の授業にも興味を感じたことは一度もなかった」って言ってもらうと嬉しいなあ。国の教育改革の委員会委員とか役人に聞かせたいセリフです。
K そういった人たちも本音ではわかっているんじゃないですかね。表に出てくるのは建前の話だけですから。
W 教育改革の話って、建前ばっかりだものね。改革すればするほど悪くなっていく。
もうひとつ、学校が「貧困を脱出するたった一つの救命袋だった」ということもはっきり述べています。「学校はおもしろくないんだけど、仕方なく行く」ということで、このあたり、とても良くわかります。小池さんはどうでした?
K 貧困を脱出すためっていうのは、芥川の時代と今では、変わってきていると思います。今では学校を出ても貧困を脱出できるとは限らなくなってきているというか。
W 僕らの頃は、勉強して大学に受かると大学4年間は、ご褒美みたいなもんで、それこそ何やってても良いみたいな感じでしたけど、最近は、中学・高校との差異が小さくなってきた。ご褒美がショボイ。そのうえ就職難だし。
K 中学の頃、芥川がとても優秀だったという証拠は何か残っているんですか。
W 中学を卒業する前に、学校で出していた雑誌に載った「木曽義仲論」というのが今でも読めて、青空文庫にも入っています。すごいですよ、これは。
K 歴史ものですか。興味ありますね。

彼は勿論学校を憎んだ。殊に拘束の多い中学を憎んだ。如何に門衛の喇叭(らっぱ)の音は刻薄な響を伝えたであろう。如何に又グラウンドのポプラアは憂欝な色に茂っていたであろう。信輔は其処に西洋歴史のデエトを、実験もせぬ化学の方程式を、欧米の一都市の住民の数を、――あらゆる無用の小智識を学んだ。それは多少の努力さえすれば、必ずしも苦しい仕事ではなかった。が、無用の小智識と言う事実をも忘れるのは困難だった。ドストエフスキイは「死人の家」の中にたとえば第一のバケツの水をまず第二のバケツへ移し、更に又第二のバケツの水を第一のバケツへ移すと言うように、無用の労役を強いられた囚徒の自殺することを語っている。信輔は鼠色の校舎の中に、―――丈の高いポプラアの戦(そよ)ぎの中にこう言う囚徒の経験する精神的苦痛を経験した。のみならず――
  (芥川龍之介「大導寺信輔の半生  四 学校」 より)     

W 上の引用、前に小池さんと出した本の中でも、ちょっと触れましたけど、どうですか?あらためて読んでみると。
K 「勿論学校を憎んだ」っていうのがいいですね。勿論ですからね。

のみならず彼の教師と言うものを最も憎んだのも中学だった。教師は皆個人としては悪人ではなかったに違いなかった。しかし「教育上の責任」は――殊に生徒を処罰する権利はおのずから彼等を暴君にした。彼等は彼等の偏見を生徒の心へ種痘する為には如何なる手段をも選ばなかった。現に彼等の或るものは、――達磨と言うあだ名のある英語の教師は「生意気である」と言う為に度たび信輔に体罰を課した。が、その「生意気である」所以はひっきょう信輔の独歩や花袋を読んでいることに外ならなかった。
   (同上)

W ここに出てくる独歩は国木田独歩、花袋は田山花袋で、ともに明治時代に活躍した小説家です。芥川は文学好きだったんですね、中学生の頃から。このあいだ、「本を読む時間があるなら受験勉強しなさい」と生徒に言う高校の先生がいるという話を聞いて驚きましたが、「生意気である」って言うのは、どういう心理状態なんでしょう?
K 自分がそういうのを読まないから、気に食わないんでしょうね。
W あはは。なるほどね。

又彼等の或るものは――それは左の眼に義眼をした国語漢文の教師だった。この教師は彼の武芸や競技に興味のないことを喜ばなかった。その為に何度も信輔を「お前は女か?」と嘲笑した。信輔は或時かっとした拍子に、「先生は男ですか?」と反問した。教師は勿論彼の不遜に厳罰を課せずに措かなかった。
    (同上)   

W 「生意気である」と言ったのが英語の教師で、「お前は女か?」といったのが国語漢文の教師だったと言うのも面白いところです。その先生の専門がなにかということと、考え方や生徒に対する接し方は、必ずしも一致しないと言うか。
K ん?どういう意味ですか?
W 英語や国語の先生は、扱ってる教科の性格からして、少し思慮深くなるんじゃないかと思ったんだけど。「体育の先生は、おっかない」というのと同じで。そんなに甘いもんじゃないか、現実は。
K そういう意味か。ええ、それはないです。ありえない。
W そうか。僕は人が良いんだな。騙されやすいとも言うけど。

「予の蒙れる悪名は多けれども、分つて三と為すことを得べし。
「その一は文弱也。文弱とは肉体の力よりも精神の力を重んずるを言ふ。
「その二は軽佻浮薄也。軽佻浮薄とは功利の外に美なるものを愛するを言ふ。
「その三は傲慢也。傲慢とは妄りに他の前に自己の所信を屈せざるを言ふ。
(同上)                           
 
W ここの部分も、僕は昔から好きなんですけどね。教師が自分に貼り付ける「文弱」「軽佻浮薄」「傲慢」というマイナスのレッテルを、自分の中ではねかえすと言うか、ひっくりかえす。「先生は男ですか?」もいいなあ。
K たしかに強さを感じますね。この小説の続きが書けていたなら、自殺しなくてもすんだかもしれないという気がしてきました。
W 今の学校でも、こうした「マイナスのレッテル貼り」は随分横行しているようです。それも「文弱」「軽佻浮薄」「傲慢」といった生やさしいものじゃなくて、ある種の病気を暗示するようなものも増えています。例えば「発達障害」とか。教師のうしろに、心理学者や精神医学者が控えていて、芥川少年のようながんばりは、押し返されてしまう。
K まあこの主人公の場合は発達障害とは言われないでしょうけど。
W 32章で扱った萩原朔太郎のような子どもが今いたら、かなりあぶない。以前、子どもの「発達障害」を研究している人に、「もし子どもに『自分は発達障害でもなんでもないから、ほっといてくれ』と言われたら、ほっときますか?」と聞いたら、「そういうわけにはいかない」と言ってました。認定するのは自分たちで、決して子ども本人ではないということですね。自分に変なレッテルを貼りそうな人には、近づかないというか、口をきかないのが一番いいんだけど、相手が学校の先生じゃ、そうもいかない。

信輔は試験のある度に学業はいつも高点だった。が、所謂操行点だけは一度も六点を上らなかった。彼は6と言うアラビア数字に教員中の冷笑を感じた。実際又教師の操行点を楯に彼を嘲っているのは事実だった。彼の成績はこの六点の為にいつも三番を越えなかった。彼はこう言う復讐を憎んだ。こう言う復讐をする教師を憎んだ。今も、――いや、今はいつのまにか当時の憎悪を忘れている。中学は彼には悪夢だった。けれども悪夢だったことは必しも不幸とは限らなかった。彼はその為に少くとも孤独に堪える性情を生じた。さもなければ彼の半生の歩みは今日よりももっと苦しかったであろう。彼は彼の夢みていたように何冊かの本の著者になった。しかし彼に与えられたものはひっきょう落莫とした孤独だった。
(同上)

W 僕は芥川の晩年の小説を読んでいると、泣きたくなることがあるんですけど、上に引用した箇所もその一つです。
中学は、芥川にとって悪夢だった。教師との関係の中で孤独にならざるをえなかった。でも、社会に出て作家として名声を得ても、やはり孤独だった、というんですね。
K まあ、そうですね。
僕も中学のころに試験がクラスで1番だったのに、成績は5段階の4だっていうことが2科目くらいありましたね。テストだけできればいいんじゃないだぞって、教師に怒鳴られたこともありました。成績は教師の懐刀ですからね。
W そうなんだ。その話は初めて聞きました。小池さん見てて、とっても良いなあと思うのは、本読むのが好きで大学生の時も、よく一人で読んでたけど、学校とか教師は決して好きではないというか、簡単に屈服したり迎合しないようなところです。中学の先生からしてみると、手強い相手だったんじゃないかな。本好きの学校嫌い、教師嫌い。
K ちなみに先生も大学時代の教師ですね。あはははは。
W 「成績は教師の懐刀」というのも面白いなあ。最近、大学でも「成績を厳格につけろ」って、上の方からいつも言ってくるけど、あれは「学生指導をきちんとやれ」っていうか、「学生をもっと締めつけろ、痛みつけろ」って意味だったんですね。
 次の引用は、太宰治が24歳の時に書いた「思い出」という小説です。やはり中学校のことが書かれています。

私は入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だというのであった。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであったが、お父さんがなくなってよく勉強もできなかったろう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であっただけに、私のこころはいっそう傷けられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしているとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびが大きいので職員室で評判である、とも言われた。私はそんな莫迦げたことを話し合っている職員室を、おかしく思った。
私と同じ町から来ている一人の生徒が、或る日、私を校庭の砂山の陰に呼んで、君の態度はじっさい生意気そうに見える、あんなに殴られてばかりいると落第するにちがいない、と忠告してくれた。
(中略)
私は散りかけている花弁であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた。私は、自分を今にきっとえらくなるものと思っていたし、英雄としての名誉をまもって、たとい大人の侮りにでも容赦できなかったのであるから、この落第という不名誉も、それだけ致命的であったのである。
(太宰治「思い出」より)

W 僕は芥川と太宰の中学体験、特に教師との関係がすごくよく似ていると思ったんですけどね。教師は自分を迫害するものとして存在する。学校自体、面白いものではない。でも、先の人生の事を考えると、どこかで折り合いをつけなきゃならない。
K まったくその通りですね。
W 芥川と太宰の作風は良く似ています。でも出身階層と言うか生家の状況は全然違うんですよね。太宰は、津軽地方を代表するような大きな家の出身でした。大学生の頃、夏休みに友だちと東北地方を一周したことがあって、太宰の家も見に行きました。その頃は「斜陽館」という大きな旅館になっていて、一泊しました。今では「太宰治記念館」になっていて、建物は国の重要文化財に指定されているそうですが。
K 太宰は自分が裕福な家の出身であることを恥じていますね。
W よく、出身階層や家の状況が子どもの将来を大きく規定するという研究があるけど、それはあくまで確率の問題で、当然のことながら決定的な要因ではないですよね。一人一人を見ていけば、いろんな人がいる。学校生活や対教師関係だって、出身階層だけからは説明できない。あたりまえのことだけど。
K ええ。
W 次は「大導寺信輔の半生」の第5章、「本」というところからの引用です。
 
こう言う信輔は当然又あらゆるものを本の中に学んだ。少くとも本に負う所の全然ないものは一つもなかった。実際彼は人生を知る為に街頭の行人を眺めなかった。寧ろ行人を眺める為に本の中の人生を知ろうとした。それは或は人生を知るには迂遠の策だったのかも知れなかった。が、街頭の行人は彼には只行人だった。彼は彼等を知る為には、――彼等の愛を、彼等の憎悪を、彼等の虚栄心を知る為には本を読むより外はなかった。
(芥川龍之介「大導寺信輔の半生 五 本」より)

W このブログの「猿蟹合戦」のところ(第21章)で、「人生は一行のボードレールにも若(し)かない」という芥川の言葉を紹介したら、小池さんが、「あまり好きな言い方じゃない」と言ってましたけど、この小説でも同じようなことを書いてますね。
K ああ、ありましたね。
W 僕はどっちかっていうと、芥川に賛成なんだけど。本から得たものは凄く多い。学校の先生や日常の生活からは、あまりなにも学ばなかった。 
K 僕は、現実の人とか日常には嫌なことが多いというところは同じなんですが、嫌なことからこそ学ぶことが多かったという感じです。

信輔は才能の多少を問わずに友だちを作ることは出来なかった。たといどう言う君子にもせよ、素行以外に取り柄のない青年は彼には用のない行人だった。いや、寧ろ顔を見る度に揶揄せずにはいられぬ道化者だった。それは操行点六点の彼には当然の態度に違いなかった。彼は中学から高等学校、高等学校から大学と幾つかの学校を通りぬける間に絶えず彼等を嘲笑した。勿論彼等の或ものは彼の嘲笑を憤った。しかし又彼等の或ものは彼の嘲笑を感じる為にも余りに模範的君子だった。
   (中略)
 信輔は才能の多少を問わずに友だちを作ることは出来なかった。たとい君子ではないにもせよ、智的貪欲を知らない青年はやはり彼には路傍の人だった。彼は彼の友だちに優しい感情を求めなかった。彼の友だちは青年らしい心臓を持たぬ青年でも好かった。いや、所謂親友は寧ろ彼には恐怖だった。その代りに彼の友だちは頭脳を持たなければならなかった。頭脳を、――がっしりと出来上った頭脳を。彼はどう言う美少年よりもこう言う頭脳の持ち主を愛した。
   (中略)
 信輔は才能の多少を問わずに友だちを作ることは出来なかった。標準は只それだけだった。しかしやはりこの標準にも全然例外のない訣ではなかった。それは彼の友だちと彼の間を截断する社会的階級の差別だった。信輔は彼と育ちの似寄った中産階級の青年には何のこだわりも感じなかった。が、わずかに彼の知った上流階級の青年には、――時には中流上層階級の青年にも妙に他人らしい憎悪を感じた。
(芥川龍之介「大道寺信輔の半生  六 友だち」より)
                            
W ここでは、友人との関係について述べています。非常に厳しい選択が働くということですね。「信輔は才能の多少を問わずに友だちを作ることは出来なかった」というフレーズが3回繰り返されます。
さっき、出身階層のことって、あまり信用できないという話をしましたけど、ここの芥川の表現はおもしろいと感じました。思いあたることがあるというか。僕は大金持ちの知人とか友人って、全くいないんですよ。学生さんのことを考えてみても、そういう人が僕のゼミを希望してきたことは、ほとんどないんじゃないかな。そこは以前から気になってました、なぜなんだろう、って。
K まあ、あの大学にはそういう学生はあまりいません。
W そういうことなのかなあ。人間の無意識のレベルでは、いろいろあるんじゃないのかな。今度、専門家に聞いておきますね。
あと、この芥川の小説で自分の10代の頃の生活を「学校」「本」「友だち」と3つに分けているところが、とても興味深かったです。「本」も「友だち」も実際には、学校の中と深く関係するんだけど、そこを厳密に分ける。この作品の中で芥川が「学校」って言ってるのは、教師とか学科の内容、学校の生徒管理体制のことなんです。「友だち」や「本」は入っていない。
もちろん、通う学校自体は生徒の側で選べるわけだけど、一度入ってしまったら、学校の体制や組織は御仕着せと言うか選べなくなる。そうした、生徒から自由のきかないものを彼は「学校」って呼んでるわけです。
一方、「本」や「友だち」の選択には、大きな自由度があります。芥川なんて、選び方にとても自分の好みが入ってくる。選択の基準も厳しい。でも、「学校」にはそういう選択が働かない。嫌でも何でも受け入れなきゃならない、無理矢理というか。学校は絶対的な力をもってしまう。
K はい。でもたしかにこの分け方は面白いですね。
W さっき、吉本隆明の芥川論に少しふれましたけど、吉本さんには「国家というのは、時々の政府のことだ」という考え方があるんです。ふつうは、もっと広い抽象的なことも含んで考える。自分たちの生活や生きていること自体も国家という枠の中でのことだって。そうすると、自分の国を否定したり、嫌いだとか言いづらくなる。
でも、「国家って、時々の政府のことだ」って考えれば、もっと自由に考えたり、好き嫌いを言えたりする。国家という概念が非常に狭くなる。例えば、僕は今の日本の政府が大嫌いですけど、それを日本という国が嫌いだって言えるんですね。
K それがどう関係しているんですか?
W 芥川が「学校」「本」「友だち」と分けたのは、そういう意味でも鋭いと思うんです。吉本さんの「国家」に当たるのが、芥川では「学校」なんです。国家と同様、学校もそのあたりをあいまいにする。「本」も「友だち」も含めたものとして「学校」を考えさせる。「先生や授業、規則は嫌だけど学校に行くこと自体は否定できないよなあ」と生徒に思わせる。3つを混同させ、わざとあいまいにする。国家も否定できないし、学校も否定できないと思わせる。そんな風に考えるんですけど、どうでしょう?
K なるほど。それはいいですね。
W 僕は芥川が言う意味での「学校」は嫌いでした。「本」や「友人」には、数はあまり多くないけど、とても良い思い出が残っています。
K 僕は「学校」は嫌いでしたが「放課後」は好きでした。
W なにやってたんだか。
自伝って、年をとると作家に限らず多くの人が書きますけど、この芥川の自伝に比べると、「いい気なものだなあ」と感じさせるものが大半です。本気の自己批評も社会批判も感じられないことが多い。自慢話ばっかりで。「自己肯定のすさまじさ」というか。
それから、芥川には「遺書」もあって、これも青空文庫で読めます。自分を責める言葉や遺された家族や知人に対する心遣いに満ちていて痛々しいんですが、読み手にせまってくる迫力は半端なものではありません。
K 現代は芥川龍之介の遺書を移動中に携帯で読める時代であるわけですね。
W 昭和の頃は、芥川の遺書なんて、それこそ芥川龍之介全集でも入手しなければ読めませんでしたからね。

       (201312月  東京・大泉学園にて)

<参考・引用文献>
芥川龍之介 大導寺信輔の半生 1925
――――― 遺書 1927
――――― 猿蟹合戦 1923  
――――― 羅生門 1915
――――― 鼻 1916
――――― 歯車 1927
――――― 或阿呆の一生 1927
――――― 蜃気楼 1927 
――――― 木曽義仲論 1910
太宰治 思ひ出 1933            
(以上  青空文庫より)

芥川龍之介 大導寺信輔の半生・手巾・湖南の扇 他12編 岩波文庫 1990(解説・中村真一郎)
新潮日本文学アルバム13 芥川龍之介 新潮社 1983(評伝 関口安義)
吉本隆明 『悲劇の解読』 筑摩書房 1979
―――― 芥川龍之介の死 『マチウ書試論 転向論』講談社学術文庫 1990に収録

ドストエフスキー 『死の家の記録』(工藤精一郎訳)新潮文庫 18621973