2014年2月16日日曜日

第41章 新ハムレット

--新ハムレット」は、作家の太宰治が、1941年(昭和16年)に発表した中編小説。シェイクスピアの「ハムレット」をもとに、太宰独自の世界を作り上げている。(まとめ・渡部)--

W 今回は、太宰治の小説「新ハムレット」です。彼が32歳の時の作品です。新潮文庫で178ページあります。少し長めの中編小説ですね。小池さんは以前、太宰の作品を全部読んだと言っていましたけど、この小説のことは覚えていましたか?
K 読んだことはあったかと思いますが、今回読み返してみて、内容はほとんど忘れていましたね。
W あらためて読んでみてどうでした?
K ずいぶんセリフがまどろっこしいという印象を受けました。圧縮したら50ページくらいになりますよね。これは太宰独自のものなのでしょうか。
W そうだと思います。シェイクスピアと同じセリフまわしは、あまり無いですね。 
K そうですか。
W 僕も大学生の頃に太宰版を読みました。それから、この作品を芝居にしたものも観たことがあります。東京・文京区の千石にあった三百人劇場で1975年の上演です。村田元史さんの演出で。うろおぼえなんですが、たしかハムレットが橋爪功で、ほかに小池朝雄や中村伸郎が出ていたと思います。今から振り返ると大変なメンバーなんですが、ほぼ40年たつんですね。驚きます。
K 千石に劇場があったんですね。
W 僕の通っていた高校の隣にありました。家から歩いて10分くらいでしたけど。客席が300で、三百人劇場。

人物の名前と、だいたいの環境だけを、沙翁の「ハムレット」から拝借して、一つの不幸な家庭を書いた。それ以上の、学問的、または政治的な意味は、みじんも無い。狭い、心理の実験である。
 過去の或る時代に於ける、一群の青年の、典型を書いた、とは言えるかも知れない。その、始末に困る青年をめぐって、一家庭の、(厳密に言えば、二家庭の、)たった三日間の出来事を書いたのである。いちどお読みになっただけでは、見落し易い心理の経緯もあるように、思われるのだが、そんな、二度も三度も読むひまなんか無いよ、と言われると、それっきりである。おひまのある読者だけ、なるべくなら再読してみて下さい。また、ひまで困るというような読者は、此の機会に、もういちど、沙翁の「ハムレット」を読み返し、此の「新ハムレット」と比較してみると、なお、面白い発見をするかも知れない。
 (太宰治「新ハムレット  はしがき」より)  

沙翁の「ハムレット」を読むと、やはり天才の巨腕を感ずる。情熱の火柱が太いのである。登場人物の足音が大きいのである。なかなかのものだと思った。この「新ハムレット」などは、かすかな室内楽に過ぎない。
(同上)

W 上の引用は、この作品の「はしがき」の一部です。
K 情熱の火柱のくだりは、このブログでも引用したことありましたね。
W シェイクスピアの「ハムレット」をもとに太宰が作り上げた作品なわけですけど、シェイクスピアへの敬意が強く感じられます。「天才の巨腕」「情熱の火花が太い」「登場人物の足音が大きい」ですから。
K 好きだったみたいですね。
W 「新ハムレット」というタイトルには、太宰の自負というか意気ごみが感じられます。日本でも「ハムレット」に触発された作品は、いくつか書かれていますが、さすがに「新ハムレット」というタイトルは他には無いですからね。
小池さんも「新・新ハムレット」でも書いてみたらどうですか。さっき言っていた、50ページに圧縮した小池版とか。そういえば、少し前に「大阪ハムレット」って映画がありましたね。
K それは観てないです。

         太宰治「新ハムレット」の場割

一 エルシノア王城  城内の大広間
              王。王妃。ハムレット。侍従長ポローニヤス。その息レアチーズ。他に侍者多数。
二 ポローニヤス邸の一室  レヤチーズ。オフィリヤ。ポローニヤス。
三 高台      ハムレット。ホレーショー。
四 王妃の居間   王妃。ホレーショー。王。
五 廊下      ポロ―ニヤス。ハムレット。ホレーショー。
六 庭園       王妃。オフィリヤ。
七 場内の一室    ハムレット。ポローニヤス。王。王妃。侍者多数。ホレーショー
八 王の居間     王。ポローニヤス。
九 城の大広間    ハムレット。オフィリヤ。王。侍者多勢。ホレーショー。
      (太宰治「新ハムレット」より作成)

W この作品は、9場構成です。場割を書き写してみました。シェイクスピアの戯曲は5幕20場ですから、約半分ですね。活字の大きさが同じ新潮文庫で比較すると、「ハムレット」(福田恒存訳)の本文が216ページ、「新ハムレット」は178ページあります。場数は少ないけど、結構長いんです、太宰版は。シェイクスピアの8割くらいの長さでしょうか。一場一場が長いとも言えます。
K 太宰は最初に、これは戯曲ではなく小説だって言ってますけど、やっぱり戯曲ですよね。
W そうですね。このまま上演できます。ただ、登場人物の数は少ないです。名前の出てくる人間は全部で7人しかいません。シェイクスピアの方は登場人物が30人以上です。太宰版は、役者一人の台詞量が多いわけです。
7人の登場人物が皆、実によく喋る。シェイクスピア版と違って、事件はあまり起こらず、会話ばかり。「おしゃべりハムレット」というか。
それに太宰が「はしがき」で自作を室内楽にたとえているのは絶妙です。シェイクスピアの方は交響曲なんだと考えていたのでしょう。太宰版は、知り合いが6人いれば上演出来ちゃうんですよね。とくに舞台装置や道具もいらないし。
K やっぱり一つ一つの喋りが長いですよね。
W 普通、こんなにしゃべりませんよね。あと、上の場割の表を見て、なにか気がついた事ありました?  
K いや、特に何も。
W 僕はこの表を書き写していた時に気がついたんですが、主人公のハムレットが1、3、5、7、9場にしか登場しないんです。一場おきというか、奇数場面だけなんですね。
K それはどうしてでしょうか?
W この作品は、ハムレットが心情を吐露する場面が見どころなわけですが、けっしてそれだけではないということですね。周囲にいる人物から彼がどう見えたのかと言うことにも注意が払われています。主人公に対する批判の眼を忘れずに描いているんです。それで、ハムレットという23歳の青年の存在が相対化される。デンマーク国の王子ですが。そこがおもしろいと思いました。
K そうか。そうですね。

 ハムレットひとり。
 ハム。「わあ、退屈した。くどくど同じ事ばかり言っていやがる。このごろ急に、もっともらしい顔になって、神妙な事を言っているが、何を言ったって駄目さ。自己弁解ばかりじゃないか。もとをただせば、山羊のおじさんさ。お酒を飲んで酔っぱらって、しょっちゅうお父さんに叱られてばかりいたじゃないか。僕をそそのかして、お城の外の女のところへ遊びに連れていったのも、あの山羊のおじさんじゃないか。あそこの女は叔父さんの事を、豚のおばけだと言っていたんだ。山羊なら、まだしも上品な名前だ。がらでないんだ。がらでないんだ。可哀そうなくらいだ。資格がないのさ。王さまの資格がないんだ。山羊の王さまなんて、僕には滑稽で仕方が無い。でも、叔父さんは、油断がならん。見抜いていやがった。僕が本当は、ウイッタンバーグなんかに行く気が無いという事を知っていやがった。油断がならん。蛇の路は、へびか。(中略)父は死に、母は奪われ、おまけにあの山羊のおばけが、いやにもったいぶって僕にお説教ばかりする。いやらしい。きたならしい。ああ、でも、それよりも、僕には、もっと苦しい焼ける思いのものがあるのだ。いや、何もかもだ。みんな苦しい。いろんな事が此の二箇月間、ごちゃまぜになって僕を襲った。くるしい事が、こんなに一緒に次から次と起るものだとは知らなかった。苦しみが苦しみを生み、悲しみが悲しみを生み、溜息が溜息をふやす。自殺。のがれる法は、それだけだ。」
 (太宰治「新ハムレット 第一場」より) 
 
W 上の引用は第一場です。新しい国王になった山羊の叔父さんの説教から、解放された後のハムレットの独白です。ハムレットの父親の王が死に、父の弟が新王になりました。そして母は新王と再婚してしまいました、たった二ヶ月の間に。
シェイクスピアの作品ですと、ハムレットの父の前王を殺したのは、この新しい王になった叔父さんなんです。でもこの太宰版は、最後まで死因がはっきりしないように書かれているんですよね。どうともとれる。
 それから上の引用にある、よく知っている人が、新しく高い地位について、どう対応したらよいのか戸惑ってしまうなんてことは、時々ありますよね。
K そんなのは冷やかすだけです。

ハム。「(前略)僕には、昔から、軽蔑感も憎悪も、怒りも嫉妬も何も無かった。人の真似をして、憎むの軽蔑するのと騒ぎ立てていただけなんだ。実感としては、何もわからない。人を憎むとは、どういう気持ちのものか、人を軽蔑する、嫉妬するとは、どんな感じか、何もわからない。ただ一つ、僕が実感として、此の胸が浪打つほどによくわかる情緒は、おう可哀想という思いだけだ。僕は、この感情一つだけで、二十三年間を生きて来たんだ。他には何もわからない。けれども、可哀想だと思っていながら、僕には何も出来ないんだ。ただ、そう思ってそれを言葉で上手に言いあらわす事さえ出来ず、まして行動に於ては、その胸の内の思いと逆な現象ばかりがあらわれる。なんの事は無い、僕は、なまけ者の大馬鹿なんだ。何の役にも立ちやしない。ああ、可哀想だ。まったく、笑い事じゃない。ホレーショも、叔父さんも母も、ポロ―ニヤスも、みんな可哀想だ。僕のいのちが役に立つなら、誰にでも差し上げます。このごろ僕には人間がいよいよ可哀想に思われて仕様が無いんだ。無い智恵をしぼって懸命に努めても、みんな、悪くなる一方じゃないか。」
(同上 第七場より)

W 上の引用は第7場でのハムレットの独白です。現代の精神科医でも連れて来ると「なんとか症」とか、いろんな名前をつけてくれるんでしょうけどね。僕は、そういうレッテル貼りって、本当にくだらないと思うんだけど。ある青年が、こういう実感をもって生きていこうとしていたという事実は、事実として認めて尊重しなくっちゃ。むき出しの生の感情。「おお可哀そう、みんな可哀そう」の述懐は太宰版だけですけどね。

ハム。「信じられない。僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ち続ける。」
(同上 第九場 より) 

W 上の引用のところは、この作品の最後の一行です。戦争が始まって、叔父さんの王に、激励されたハムレットの返事ですね。昭和16年だから、実際の戦争とだぶらせてるのかな。
K 戦争真っ最中ですね。
W この作品のハムレットは、太宰治その人によく似ています。まさに彼が言いそうなことばかり発言します。ただ、この作品の面白いところは、さっきもちょっと言いましたが、ハムレットの側の言い分だけでなく、まわりの人間が彼をどう見、批判していたのかも、随所に描いていることなんです。ここで、王(叔父)、レヤチーズ(小さい頃からの友人で臣下)、王妃(母)の発言をあげてみます。

何も君、そんなに顔色を変えて、わしを睨む事は無いじゃないか。君は少し表情が大袈裟ですね。わかい頃は誰しもそうなんだが、君は、自分ではずいぶん手ひどい事を他人に言っていながら、自分が何か一言でも他人から言われると飛び上って騒ぎたてる。君が他人から言われて手痛いように、他人だって君にずけずけ言われて、どんなに手痛いか、君はそんな事は思ってもみないのですからね。 
(王の発言  第一場より)

それでは、もっとはっきり言ってあげる。僕の反対するのは、何もあの人のお身分のせいばかりではないのだ。僕は、あの人を、きらいなのだ。大きらいだ。あの人は、ニヒリストだ。道楽者だ。僕は小さい時から、あの人の遊び相手を勤めて来たから、よく知っている。あの人は、とても利巧だった。ませていた。なんにでも直ぐに上達した。弓、剣術、乗馬、それに詩やら、劇やら、僕には不思議でならぬくらいによく出来た。けれども少しも熱が無い。一とおり上達すると、すぐにやめてしまうのだ。あきっぽいのだ。僕には、あんな性格の人は、いやだ。他人の心の裏を覗くのが素早くて、自分ひとり心得顔してにやにやしている。いやな人だよ。僕たちの懸命の努力を笑っているのだ。
    (レヤチーズの発言  第二場より) 

あなたなどには、まだ、ハムレットなんかが、いい男に見えて仕様がないのでしょうね。あの子は、馬鹿な子です。周囲の人気が大事で、うき身をやつしているのです。わかい頃には、お友達や何かの評判が一ばん大事なものらしい。馬鹿な子です。根からの臆病者のくせに、無鉄砲な事ばかりやらかしてお友達や、オフィリヤには、ほめられるでしょうが、さてその後の始末が自分では何も出来ないものですから、泣きべそをかいて、ひとりで、すねているのです。そうして内心は私たちを、あてにしているのです。私たちが後の始末をしてくれるのを、すねながら待っているのです。気障(きざ)な、思いあがった哲学めいた事ばかり言って、ホレーショーたちを無責任に感服させて、そうして陰では、哲学者どころか、私たちに甘えてお菓子をねだっているような具合なんですから、話になりません。
(王妃の発言  第六場より)

W 随分辛辣な発言が多いんです。ハムレットは、まわりの人間から、随分攻めこまれている。自分が周囲からどう見られているのかを、30代前半の太宰がよく認識していたのがわかります。きっと、実際に面と向かって言われたことなんかも、セリフとして利用していると思います。
K そうかもしれませんね。
W ただ、この「新ハムレット」という作品、周囲の人間のハムレット批判だけではありません。主人公以外の登場人物も、太宰がしゃべりそうなことを発言するんです。太宰みたいというか、太宰がのりうつっている。例えば、王妃(ハムレットの母)です。

女は、だめですね。いいえ、女だけでなく、私にはこのごろ、人間というものが、ひどく頼りなくなってきました。よっぽど立派そうに見える男のかたでも、なに、本心は一様にびくびくもので、他人の思惑ばかりを気にして生きているものだという事が、やっとこのごろ、わかって来ました。人間というものは、みじめな、可哀そうなものですね。成功したの失敗したの、利巧だの、馬鹿だの、勝ったの負けたのと眼の色を変えて力んで、朝から晩まで汗水流して走り廻って、そうしてだんだんとしをとる、それだけの事をする為に私たちは此の世の中に生まれてきたのかしら。虫と同じ事ですね。ばかばかしい。
(王妃の発言 第六場より)

W 彼女はこのあと、身投げして死んでしまいます。シェイクスピア版では、間違って殺されてしまうんですが。
K 主人公以外の登場人物も、太宰がしゃべりそうなことを言うっていうのは、僕も感じました。登場人物がレヤチーズ以外、みんな似ているというか、同じようなことを話しますね。
W 次の引用は第2場です。侍従長のポローニャスが、外国の大学に留学しようとしている息子のレアチーズに教訓を与えようとする場面です。これは僕がちょうど大学生の時に読んだからかもしれませんが、非常に強く印象に残っています。長いので、ごく一部分だけを引用してみます。 

ポロ。「何度だっていい。十度くりかえしても不足ではない。いいか、まず第一に、学校の成績を気にかけるな。学友が五十人あったら、その中で四十番くらいの成績が最もよろしい。間違っても、一番になろうなどと思うな。ポローニヤスの子供なら、そんなに頭のいい筈がない。自分の力の限度を知り、あきらめて、謙譲に学ぶ事。これが第一。つぎには、落第せぬ事。カンニングしても、かまわないから、落第だけは、せぬ事。落第は、一生お前の傷になります。としとって、お前が然るべき重職に就いた時、人はお前のカンニングは忘れても、落第の事は忘れず、何かと目まぜ袖引き、うしろ指さして笑います。学校は、もともと落第させないように出来ているものです。それを落第するのは、必ず学生の方から、無理に好んで志願する結果なのです。感傷だね。教師に対する反抗だね。見栄だね。くだらない正義感だね。かえって落第を名誉のように思って両親を泣かせている学生もあるが、あれは、としとって出世しかけた時に後悔します。学生の頃は、カンニングは最大の不名誉、落第こそは英雄の仕業と信じているものだが、実社会に出ると、それは逆だった事に気がつきます。カンニングは不名誉に非ず、落第こそは敗北の基と心掛ける事。なあに、学校を出て、後でその頃の学友と思い出話をしてごらん。たいていカンニングしているものだよ。そうしてそれをお互いに告白しても、肩を叩き合って大笑いして、それっきりです。後々の傷にはなりません。けれども落第は、ちがいますよ。それを告白しても、人はそんなに無邪気に笑って聞きのがしては、くれません。お前は、どこやら、軽蔑されてしまいます。出世のさまたげ、卑屈の基。人生は、学生々活にだけあると思うと、とんだ間違い。よくよく気をつけて、抜け目なくやっておくれ。ポローニアスの子じゃないか。
   (同上  第二場より)

W この落第とカンニングの話、どうですか?小池さんは落第した事ないからわからないか。僕は、大学受験の時に1年浪人し、オーバードクターもしてますからね。そんなことで威張ってもしょうがないけど。
K ここは面白いですね。こんなこと言ってるお父さん、実際にいそうですし。

 ことし落第ときまった。それでも試験は受けるのである。甲斐ない努力の美しさ。われはその美に心をひかれた。
    (太宰治「逆行」より)
 
試験場では、百人にあまる大学生たちが、すべてうしろへうしろへと尻込みしていた。前方の席に座るならば、思うがままに答案を書けまいと懸念しているのだ。われは秀才らしく最前列の席に腰をおろし、少し指先をふるわせつつ煙草をふかした。われには机のしたで調べるノオトもなければ、互いに小声で相談し合うひとりの友人もないのである。
 (同上)
 
われはフランス語を知らぬ。どのような問題が出ても、フロオベエルはお坊ちゃんである、と書くつもりでいた。     
(同上)

 先生、及第させて、などとは書かないのである。二度くりかえして読み、書き誤りを見出さず、それから、左手に外套と帽子を持ち右手にそのいちまいの答案を持って、立ちあがった。 
   (同上) 

W 上の引用は、太宰が26歳の時に書いた「逆行」という小説です。第一回の芥川賞の候補に最後まで残ったそうですが。
太宰は大学を何年も落第して、結局、卒業できなかったんです。仏文科に入学したのに、授業には出席せず、フランス語は全く読めなかったそうです。だからこそ、ポローニャスのセリフがきいてくるんですね。諧謔の見事さというか。
 次はお酒を飲むところです。

相手から、あまりしつこく口論を吹っ掛けられた場合には、屹っとなって相手の顔を見つめ、やがて静かに、君も淋しい男だね、とこう言え。いかな論客でも、ぐにゃぐにゃになる。けれども、なるべくならば笑って柳に風と受け流すが上乗。宴が甚だ乱れかけて来たならば、躊躇せず、そっと立って宿へ帰るという癖をつけなさい。何かいいことがあるかと、いつまでも宴席に愚図愚図ととどまっているような決断の乏しい男では、立身出世の望みが全くないね。帰る時には、たしかな学友を選んでその者に、充分の会費を手渡す事を忘れるな。三両の会費であったら、五両。五両の会費であったら十両、置いてさっと引き上げるのが、いい男です。人を傷つけず、またお前も傷つかず、そうしてお前の評判は自然と高くなるだろう。
 (「新ハムレット」第二場 ポローニャスの発言から)    

W どうですか?小池さんのお酒の飲み方と比べて。
K 僕もだいたいこんな感じですよ。
W 僕は酒席に連なる時、一番早く帰ることが多いんだけど、ここのポローニャスの教訓が、どこか頭に残っていたような気もするんですよね。なにかいいことなんて、絶対におこらない。
K 一番早く帰るのは、なにも酒席にかぎらないでしょうが。
W あはは、よく知ってますね。このほか、学友の選び方、金銭、特にお金の貸し借り、女性とのつきあい、賭博、服装、下宿のおばさんへの手土産とか、おもしろいことが沢山書いてあります。太宰自身が順守していたとは思えませんが。
K とても思えませんね。

シェイクスピアの「ハムレット」について

W 最後に、シェイクスピアの「ハムレット」にも少し触れておきましょう。太宰も、暇で困るという人はこちらの「ハムレット」も読んでみてください、と言っていることですし。
K 僕は読んだことがないので、「新ハムレット」もどこまでがオリジナルなのかよくわかりませんでした。
W 今回は、新潮文庫の福田恒存の訳を利用させてもらいました。福田さんは、翻訳のほかに文芸評論や演出など多彩な仕事をこなした昭和の論客です。「芥川龍之介と太宰治」という本も出版しています。
K 先生は、シェイクスピアの「ハムレット」も観たことあるんですか?
W 23回、観たことがありますが、一番よく覚えているのは1994年に東京・新大久保のグローブ座で平幹二朗が演じたハムレットです。もう20年前ですが、当時60歳が演じるハムレットということで話題になりました。でも歌舞伎なんかですと、60代、70代の役者が10代、20代を演じるのはよくあることですので、あまり違和感はありませんでした。前の方の席で観たんですけど、大変な熱演で汗が光ってました。
K まあ、年はあんまり関係ないでしょうね。
W 太宰の作品と比べるとシェイクスピア版は、実にいろんな事が起こるんです。先王の幽霊が出て来たり、旅芸人が舞台の上で芝居をしてみたり。劇中劇って言うんですけど。
太宰版の7人の登場人物全員が、シェイクスピア版にも出てきますが、最後まで生き残るのは、ハムレットの友人のホレイショ1人です。太宰版は4人生き残りますが。そういう意味では違うお芝居ですね。
太宰版が会話劇なのに、シェイクスピア版は行動劇と言うか。でも、似ている場面もあります。先ほどのポローニアスが、大学に向かう息子のレイアーティーズに心構えを説くところは、シェイクスピア版にも出てきます。

ポローニアス   まだこんなところにいたのか、レイアーティーズ。さ、さ、乗りこんだり、乗りこんだり。帆は風をはらみ、お前を待っている。さあーーお前の仕合せを。(レイアーティーズの頭に手をのせる)さてと、二、三、言って聞かせることがある。しかと肝に銘じて忘れるなよ。いいか、腹に思うても、口には出さぬこと、突飛な考えは実行にうつさぬこと。つきあいは親しんで狎れず、それがなにより。が、こいつはと思った友だちは、鎖で縛りつけても離すな。というて、まだ口ばしの黄いろい、羽もはえそろわぬようなお調子ものと、やたらに手を握って、掌にまめをこしらえるではないぞ。けんか口論にまきこまれぬよう用心せねばならぬが、万一まきこまれたら、そのときは、目にものを見せてやれ。相手が、これは手剛い、用心せねばならぬと懲りるほどな。どんなひとの話も聞いてやれ。だが、おのれのことをむやみに話すではない。他人の意見には耳を貸し、自分の判断はさしひかえること。それからと、財布の許すかぎり、身のまわりには金をかけるがいい、といって、けばけばしく飾りたててはいかん。凝るのはいいが、華美は禁物。たいてい着るもので人柄がわかるものだからな。それにフランスの上流階級というやつは、いや、そうでのうても通人連ときたら、着るものがなかなかやかましゅうてな。ええと、金は借りてもいけず、貸してもいけずと。貸せば金を失い、あわせて友をも失う。借りれば、倹約がばからしゅうなるというもの。ところで、いちばん大事なことはな、己に忠実なれ、この一事を守れば、あとは夜が昼につづくごとく、万事自然に流れだし、他人に対しても、いやでも忠実にならざるをえなくなる。わかったな。では、行けーーわしの言葉が、お前の胸のうちに実を結ぶように。
(シェイクスピア「ハムレット」(福田恒存訳)新潮文庫  3334ページより。)

W ポローニアスの訓話、シェイクスピア版はこれで全部です。太宰版より大分短い。どうですか?このあたり。
K こっちもいいですね。
W 太宰がシェイクスピア版のここのところを読んで、とってもおもしろいと思ったんじゃないかしら。それで、ここで立ち止まって、内容を大きく膨らませようとした。もちろん、説教される息子の立ち場にも立ちながら。
K たしかに。そうかもしれないですねえ。
W カンニングや落第の話や酒の飲み方なんかはシェイクスピア版には出て来ないんですけど。友人、服装、借金の事なんかは、両方に出てきます。
 でもシェイクスピアの「ハムレット」って、1600年ころの作品です。日本では、関ヶ原の戦いが終わって、江戸幕府が出来た年です。日本と西洋で人間観察の深さがずいぶん違うんじゃないかしら。内容からいうと、モンテーニュの「エセ―」みたいなところがありますね。「ハムレット」のちょっと前にフランスで書かれましたが。もちろんローマ時代までさかのぼれば、プルタルコスとかセネカとか、いろいろな人の影響があると思いますけど。
K そうですかね。徒然草なんかはもっとずっと前ですよ。
W なるほど。徒然草か。徒然草では、たしかに友人の選び方なんて書いてますね。
 
 友とするのに、不適当なものが七つある。一つには身分の高い人、二つには若い人、三つには無病で身体の強い人、四つには酒好きの人、五つには勇気にはやる武士、六つには嘘をつく人、七つには慾の深い人。
 友としていいのに三つある。一つには物をくれる人、二つには医者、三つには智恵のある友。
  (吉田兼好「徒然草」(現代語訳 今泉忠義)角川ソフィア文庫 百十七段より)
 
つぎに、学友の選びかたに就いて。これもまた重大です。一学年上の学生を、必ずひとり、友人にして置かねばならぬ。試験の要領を聞くためだ。試験官の採点の癖を教えてもらえる。さらに、もうひとり、同学年の秀才と必ず親交を結ばなければならぬ。ノオトを貸してもらい、また試験の時には、お前の座席のすぐ隣りに坐ってもらうためであります。学友は、その二人で充分です。不要の交友は、不要の出費。
(太宰治「新ハムレット 第2場」ポローニャスの発言より)

W 徒然草の「物をくれる人」とか、太宰の「秀才で、試験の時、隣に座ってくれる人」とか、面白いなあ。吉田兼好も太宰治も典型的な反俗の人なんだけど、友人の選び方については、妙に功利的というか俗っぽいことを書いている。交友なんて、その程度のものだと思ってたのかな。でも、「走れメロス」っていう小説もあるし、どこまで本気か分からないですね。

ポローニアス  心得ております。せいぜい応分の扱いを。
ハムレット   何を言う。できるだけのことをしてやれ!応分の扱いということになれば、鞭をまぬかれるものは誰もいまい。おのれの身分に応じて人を遇すべしーー連中にその値打ちがなければ、それだけお前の親切が貴いものになるのだ。さ、みんなを案内してやれ。
 (シェイクスピア「ハムレット」(福田恒存訳)新潮文庫 87ページより)  

W 上の引用はハムレットのお城にやってきた劇団の役者たちをどうもてなすか、ポローニャスとハムレットが話をしているところです。「応分の扱いということになれば、鞭をまぬがれるものは誰もいまい」とハムレットは言うんですよね。
K それがどうかしたんですか?
W ここのハムレットの人間認識は性悪説ですよね。「鞭をまぬがれるものはだれもいまい」ですから。普通、性悪説を取る人は、「だからこそ、人間を厳しく取り扱わなきゃいけない、甘やかしちゃ駄目だ」と考えると思うんです。でも、ハムレットは、「人間は罪深いものだからこそ、全く逆の対応を取るべきだ」と言ってると思うんです。そこがおもしろい。僕は共感します。
K そうか。ここはそういう文脈なのですね。
W 次の引用は、シェイクスピアの「ハムレット」で一番有名なところです。太宰のハムレットは、別に狂気を装っていないんですが、こちらの芝居では、狂気を装っています。自分の父親の死の真相を知るために。でも彼が舞台に一人出て、独白する部分は正気のままなんです。この引用部分は、ハムレットの本心です。

ハムレット  生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生き方か、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。いっそ死んでしまったほうが。死は眠りにすぎぬーーそれだけのことではないか。眠りに落ちれば、その瞬間、一切が消えてなくなる、胸を痛める憂いも、肉体につきまとう数々の苦しみも。願ってもないさいわいというもの。死んで、眠って、ただそれだけなら!眠って、いや、眠れば、夢も見よう。それがいやだ。この世の形骸から脱して、永遠の眠りについて、ああ、それからどんな夢に悩まされるのか、誰もそれを思うとーーいつまでも執着が残る、こんなみじめな人生にも。さもなければ、誰が世のとげとげしい非難の鞭に堪え、権力者の横暴や驕れるものの蔑みを、黙って忍んでいるものか。不実な恋の悩み、誠意のない裁判のまどろこしさ、小役人の横柄な人あしらい、総じて相手の寛容をいいことに、のさばりかえる小人輩の傲慢無礼、おお、誰が、好き好んで奴らの言いなりになっているものか。その気になれば、短剣の一突きで、いつでもこの世におさらば出来るではないか。それでも、この辛い人生の坂道を、不平たらたら、汗水たらしてのぼって行くのも、なんのことはない、ただ死後に一抹の不安が残ればこそ。旅だちしものの、一人としてもどってきたためしのない未知の世界、心の鈍るのも当然、見たこともない他国で知らぬ苦労をするよりは、慣れたこの世の煩いに、こづかれていたほうがまだましという気にもなろう。こうして反省というやつが、いつも人を臆病にしてしまう。 
    (同上   9495ページ)

W ここのところ、最初の一文だけ、ばかに有名ですけど、後ろの方も知ってました?
K いえ、知りませんでした。
W 僕は後ろの部分、これまでよく読めていなかったんですよね。今回初めて、ああそういうことかと、よくわかりました。「生か、死か」と言うと、生きていることと、死んでしまうことのどちらがよいのかという比較と単純に考えてしまうじゃないですか。そこでまず、現世の良い事と悪い事をはかりにかける。僕はこれまで、ずっと、そう思ってました。
しかし、この場のハムレットには、その問題はもう解決ずみなんです。現世には堪えがたい事が多いから、死んでしまいたい。でも、死は睡眠と同じなんだけど、そこで悪い夢を見たらどうしよう、そういう悩みなんですよね。彼にとって、現世がマイナスであることは、すでにわかりきっているんです。そこは動かしようがない。
K なるほど。
W 僕はすごくよく理解できる考え方だなあ、と思うんですけどね。僕もマイナス130点ぐらいかな、収支決算すると。
小池さんは、死後の世界とか、天国と地獄とか信じてる方ですか?それ聞いておかないと。
K 全然信じていません。
W 僕も死んだら全て終わりだと思ってます。死は眠りだけど、変な夢は見ない。だから、煩悶するハムレットは少し可哀そうに思えます。そんなことに悩む必要はないじゃないか、答えは出てるじゃないか、ということなんですけど、どうでしょうか?
K そんなことをわざわざ考えている時点で、先生にも多少こだわりがあるってことですかね。
W そうかもしれません。天国と地獄とか、若い頃はちらっと考えることがありました。あったら、絶対に地獄行きだなって。 
それから、ここでハムレットのあげている現世のさまざまな悪って、400年以上たっても、全く変っていない。というか、日ごろ僕なんかが「ああ、厭だ厭だ」といつも感じていることがそのまま書いてある。人間の思考や生活って全然進歩がない。どうしましょう?
K 僕に聞かれても困ります。

「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生まれた時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」
「お仕事が、おありですから」
「仕事なんてものは、なんでもないんです。傑作も駄作もありやしません。人がいいと言えば、よくなるし、悪いと言えば、悪くなるんです。ちょうど吐くいきと、引くいきみたいなものなんです。おそろしいのはね、この世の中の、どこかに神がいる、という事なんです。いるんでしょうね?」
「え?」
「いるんでしょうね?」
「私には、わかりませんわ」
「そう」
(太宰治「ヴィヨンの妻」より)

W ちょっと唐突ですが、太宰の晩年の小説、「ヴィヨンの妻」です。すさんだ生活を送る小説家と妻の会話です。どうですか?
K 有名な箇所ですね。唐突でもないですよ。同じ問題が書かれている。
W 次の引用は、今回、シェイクスピアの「ハムレット」を読み返してみて一番印象に残ったところです。

王がはいってくる。
妃   ああ、あれをごらんになって、かわいそうに。
オフィーリア(歌う)  
    とりどりの 花の飾りに つつまれて 
    恋い慕う 涙の雨に そぼぬれて 
    辿(たど)り行く 墓地の道の 迷い路の
王   オフィーリア、ぐあいはどうだな?
オフィーリア   ありがとうございます。おかげさまで!梟(ふくろう)は、もとパン屋の娘だったのですってね。イエス様をだましたものだから、その罰で姿を変えられてしまったらしいの。でも、私はそうではなくてよ、こんな姿になってしまったけれど。ねえ、王様。きょうはひとの身、あすはわが身、誰もさきのことはわかりはしない・・・では、遠慮なくいただきます、イエス様!
(シェイクスピア「ハムレット」(福田恒存訳)新潮文庫 156-157ページより)    

W オフェーリアは、ハムレットに失恋します。また、彼に父のポローニャスを殺されてしまいました。上の引用は、そのあとの彼女の狂乱の場面です。本当は、この前後にも錯乱した彼女のセリフが長々と書かれています。
この狂乱のセリフが実に痛切だと思いましたし、オフェーリアがかわいそうでしかたありませんでした。ハムレットの装った狂気と、オフェーリアの真実の狂気の対比が見事です。このあと、彼女は溺死してしまうんですけどね。
K そうですか。
W 「ソネット集」という詩集もあって、シェイクスピアは詩人としても有名なんですが、このオフェーリアの述懐は、「ハムレット」という作品の中で、最も詩的な部分だと思います。


    (20142月 東京・大泉学園にて)

<参考・引用文献>
太宰治  新ハムレット 1941
―――  逆行 1935
―――  ヴィヨンの妻 1947
―――  走れメロス 1940            
(以上  青空文庫より)

太宰治  新ハムレット   新潮文庫 1964 (解説・奥野健男)
シェイクスピア  ハムレット(福田恒存訳)  新潮文庫16001967(解題・福田恒存、解説・中村保男)
―――――――  シェイクスピア大全 CDROM 新潮社 2003 
―――――――  ソネット集(高松雄一訳)岩波文庫 16091986
福田恒存  芥川龍之介と太宰治  レグルス文庫 1977

モンテーニュ  エセ―(1-6)(原二郎訳)岩波文庫 15881965

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