2014年4月15日火曜日

第43章 二老人

--二老人」は、作家の国木田独歩が1908年(明治41年)に発表した短編小説。二人の老人の姿を通して、働くことの功罪と、独居生活の意味を考察している。(まとめ 渡部)--

W 今回は国木田独歩の「二老人」です。新潮文庫で14ページあります。短編小説ですね。この小説が書かれた1908年(明治41年)に、独歩は死亡しています。この「二老人」が絶筆になりました。まだ36歳でしたが、結核による病死でした。
 小池さんは、国木田独歩の小説、なにか読んだことありましたか?
K いえ、ありません。
W 第39章の「大導寺信輔の半生」のなかで、中学生時代の芥川竜之介が独歩の小説を読んでいたら、英語の教師に、生意気だと体罰を課せられたなんて話が出てましたね。
僕も国木田独歩の小説は、あまり読んだことなくて、「武蔵野」と「牛肉と馬鈴薯」ぐらいでしょうか。「武蔵野」は小説というより、随筆ふうの作品ですが。この「二老人」は、青空文庫をぱらぱら読んでいて、偶然見つけました。
 この小説、読んでみてどうでした?
K 自分の研究上の関心にも近い話題で、興味深く読みました。文章もとても読みやすかったですね。
W 文芸評論家の中村光夫に「日本の近代小説」という定評のある本があるんですが、そのなかで国木田独歩についても論じています。

明治三十四年以降の第二期にぞくする作品には、彼の本領がもっとも明確に現われたものが多く、題材も多様ですが、「牛肉と馬鈴薯」(三十四年)「富岡先生」「酒中日記」「運命論者」「巡査」(三十五年)「女難」「正直者」(三十六年)など彼の代表作に共通する特色は、時代の塵埃にまみれて生き、あるいはそこから敗者として投げ出された人々が、その心の善良さで生活に傷ついた悲しみを描いたものが多く、この特色は第三期の自然主義的といわれる作品にさらに顕著に表われています。この時期は大体彼の死の前年にあたる明治四十年以降であり、この短い期間に独歩は病躯をおして「窮死」「波の音」「号外」(四十年)、「竹の木戸」「二老人」(四十一年)などを書きましたが、これらの作品には平凡人の生活の平凡な悲劇喜劇が、冷静な筆致で描写され、独歩の作品のうちで(自然主義の短編のなかでも)もっとも芸術的に完成されたものです。
(中村光夫「日本の近代小説」岩波文庫、1954112ページより)

W 「平凡人の生活の平凡な悲劇喜劇の冷静な描写」って、まさにどんぴしゃり、なんじゃないかな。  
K そうですね。
W 「二老人」、今から106年前に書かれたものですけど、とてもそんな感じがしませんでした。まず、文章が簡潔で、内容が無理なく読み手に伝わります。最近書かれた文章と言われたとしても、違和感はありません。扱われているテーマも現代的です。「働くか、働かないか」「独りで住むか、人と一緒に住むか」なんて、社会学的にも重要な課題ですよね。
K とくに最近注目されているトピックですね。
W 僕は数年前、モーパッサンの短編小説ばかり読んでいた時期があったんですけど、作者の語り口が似ていると思いました。終わり方も似ています。オチとかなくて、スーッと終わる。どちらも、自然主義文学と言われてますが。
K 自然主義っていうと、物事を美化するなっていうことかと思いますが、そのため自然主義の作品は社会学と親和性が高いですね。
W 鋭いこと言うなあ。僕は、今まで気がつきませんでした。

秋は小春のころ、石井という老人が日比谷公園のベンチに腰をおろして休んでいる。老人とはいうものの、やっと六十歳で足腰も達者、至って壮健のほうである。
 日はやや西に傾いて赤とんぼの羽がきらきらと光り、風なきに風あるがごとくふわふわと飛んでいる、老人は目をしばたたいてそれをながめている、見るともなしに見ている。空々寂々心中なんらの思うこともない体(てい)。
(国木田独歩「二老人」より)

W 上の引用は、この作品の冒頭です。主人公の石井という60歳の男性が紹介されています。体が元気で、心の悩みも特にないんですね。うらやましい。
K これを病床にあった30代の人が書いていると思うと、少し違和感があります。

甥の山上武は二三日前、石井翁を訪うて、口をきわめてその無為主義を攻撃したのである。
(同上)

徳の本心はやっぱりわしを引っぱり出して五円でも十円でもかせがそうとするのだ、その証拠には、せんだってごろまでは遊んで暮らすのはむだだ、足腰の達者なうちは取れる金なら取るようにするのが得だ、叔父さんが出る気さえあればきっと周旋する、どうせ隠居生活のつもりだから十円だって決して恥ずるに足らんと言ったくせに、今度はどうだ。人間一生、いやしくも命のある間は遊んで暮らす法はない、病気でない限り死ぬるまで仕事をするのが人間の義務だと言う。まるで理屈の根本が違って来たじゃないか、――やっぱりわしをかせがすつもりサーーとまで考えて来た時、老人はちょうど一本の煙草をすい切った。
(同上)

W 上の引用の山下武と徳は同じ人物です。石井老人の妻の妹の息子なんです。石井が勤めを全てやめてしまったことに苦情を述べに来ています。自分の母親に頼まれて、文句を言いに来てるんですけどね。ちょっと変わった人だなあ。

石井翁は一年前に、ある官職をやめて恩給三百円をもらう身分になった。月に割って二十五円、一家は妻に二十になるお菊と十八になるお新の二人娘で都合四人ぐらし、銀行に預けた貯金とても高が知れてるから、まず食って行けないというのが世間並みである。けれども石井翁は少しも苦にしない。
(同上)

 それで石井翁の主張は、間に合いさえすれば、それでやってゆく。いまさらわしが隠居仕事で侯のと言って、腰弁当で会社にせよ役所にせよ病院の会計にせよ、五円十円とかせいでみてどうする、わしは長年のお務めを終えて、やれやれ御苦労であったと恩給をいただく身分になったのだ。(中略)恩給だけでともかくも暮らせるなら、それをありがたく頂戴して、すっかり欲から離れて、その日その日を一家むつまじく楽しく暮らすのがあたりまえだ。よしんば二十五円に十円ふえたらどれだけの贅沢ができる。――-みんな欲で欲には限りがないーー役目となれば五円が十円でも、雨の日雪の日にも休むわけにはいかない、やっぱり腰弁当で鼻水をたらして、若い者の中にまじってよぼよぼと通わなければならぬ。オオいやな事だ!
 (同上)

W ここの「若い者の中にまじってよぼよぼと通わなければならぬ。オオいやな事だ!」ってあたり、とてもよくわかります。身につまされるというか。
 石井老人は、毎月のお金は足りないんだけど、あまり使わないで、しのいでいこうとしています。働くかわりに、日比谷公園に散歩に行ったり、奥さんと家で囲碁を打ったりの生活です。のどかでいいなあ。
K まあ奥さんもそれでよさそうな感じですよね。
W のんびりした、良い奥さんです。
 
石井翁はさんざん徳さんの武に言わしておいたあげく、
「それじゃ、山に隠れて木の実を食い露を飲んでおる人はどうする。」
「あれは仙人です。」
「仙人だって人だ。」
「それじゃ叔父さんは仙人ですか。」
「市に隠れた仙人のつもりでおるのだ。」
 これで武はまたも撃退されてしまったのである。
(同上)

W 石井翁は、甥の武に負けないんですね。ちょっと唐突ですが、次の引用は、作家の村上春樹の南ヨーロッパ滞在記「遠い太鼓」の一節です。

 ヴァンゲリスは来年の春に六十になる。六十になれば年金が下りるんだ、と彼は嬉しそうに言う。なあハルキ、そうすればもうあとは遊んで暮らせるんだ。ヴァンゲリスも歳取った。毎日働くのも大変だよ。六十年間ずっと働いてきたんだ。そろそろやすんだっていいじゃないか。
 でもヴァンゲリスはとても元気そうだし、まだまだ働けるじゃないか、と僕は言う。日本では六十なんてまだまだ働きざかりである。
 いやいやとヴァンゲリスは首を振る。六十というのはもう働く歳じゃないよ。ヴァンゲリスも歳取った。元気ない。そしてヴァンゲリスはがっくりとうなだれるふりをする。とことん疲れたということを示すために。
(村上春樹「遠い太鼓」講談社文庫、19901993178-179ページより)

W 僕は村上春樹の随筆や旅行記が好きなんですけど、特にこの「遠い太鼓」がお気に入りです。
ヴァンゲリスは、ギリシャのミコノス島の別荘の管理人です。ヴァンゲリスが59歳、石井翁が60歳、僕が61歳。僕は、石井翁の気持ちもヴァンゲリスの気持ちもとてもよくわかりますね。年とともに、体がだんだんつらくなってくる。それとともに働くことへの嫌悪感が強まります。
僕自身まだ働いてますけど、今の仕事を最後にしたいという思いは痛切です。実は昔から、働くの好きじゃなかったんですよね。大学生時代のアルバイトの時も、今日は、これから仕事があると思うと、一日憂鬱でした。バイトのあるなしで、まわりの景色が違って見えました。小池さんは、そうでもなかったのかな。
K 「実は」なんて言わなくても、みんな知ってますよ。働くのが嫌いなことは。僕はそうでもないです。
W 今の日本じゃ、年金支給年齢が65歳まで引き上げられたり、「働けるうちは働いた方が良いんだ」という考えが広がってますよね。これは、なぜなんでしょうね。
K いろいろな理由づけをされますね。労働人口の減少だとか、働いていた方が健康が続くから社会保障費が抑制されるだとか。本人の側からしても、仕事がなくなると他にやることもなくて退屈だとか、まだ稼ぎたいとか、名誉欲だとかで辞めたくない人もいます。でもまあそんなに一枚岩の考え方でもないと思います。働かせたいという人も辞めさせたいという人も働き続けたいという人も引退したいという人も、いろいろですよ。
W 「二老人」に出てくる、「無為主義に対する攻撃」とか「勤勉礼賛」とか、いまだになくならない。むしろ強まってるんじゃないかしら。「死ぬまで働け」って。政治家や官僚の都合なのかな。
K 年金支給時期の引き上げや、医療費・介護給付費の抑制についてはそうでしょうね。でも逆に高齢者の雇用が若者の雇用や活躍の場を奪っているんだっていう意見もありますね。
W そう、そう。なぜか、そのこと、マスコミがあまり言わないよね。
「二老人」の後半には、新たに河田老人という人が出てきます。この人は、まだ働いていて、独居老人なんですね。無職で家族と暮らしている石井老人とは逆な状態なわけです。

「イヤとてもお話にもなんにもーーー」
これが河田翁持ち前の一つで、人に対すると言いたいことも言えなくなり。つまらんところに自分を卑下してしまうのである。
(国木田独歩「二老人」より)

このひとり者が翁の不遇の原因をなしたのか、不遇がひとり者の原因であったのか、これをわかつことはできない。
善人で、酒もしいては飲まず、これという道楽もなく、出入交際の人々には義理を堅くしていて、そしてついに不遇で、いつもまごまごして安定の所を得ず今日が日に及んだ翁の運命は、不思議な事としか思えない。
(同上)

石井翁は取り残されて茫然と河田翁の後姿を見送っていた。
河田翁が延び上がって遠くまで見回したのは巡査がこわかったのだ。そこで翁と巡査がすれ違った時に、河田翁は急に帽子に手をかけて礼をした。石井翁は見ていてその意味がわからなかった。
                           (完)
(同上)

W この作品で、河田翁は、あんまりまっとうな人生を送ってこなかったように書かれています。今でも勤め先で使いこみしてるというように。ただそのことと、独身生活が長かった事が結び付けられてるんですよね。僕はちょっと不満です。偏見なんじゃないかなあ。
K それで、「この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。」とあるんですね。
W たしかに、犯罪社会学にもボンド理論というのがあって、人との絆というか紐帯が無いと、人間は糸の切れた凧みたいに、どこへでも飛んで行ってしまう、犯罪や非行も犯しやすくなるという考え方があります。まあ、性悪説が理論の根底にあって、僕はあまり好きな考え方ではないですね。
K 家族がいる人は、犯罪に手を染めようとしたときに家族の顔が浮かんできて思いとどまるから、しないんだっていう考えですね。
W 上の引用の「石井翁は見ていてその意味がわからなかった」というのが、この小説の最後の一文ですが、不思議な終わり方ですよね。ぷっつり折れるように終わってしまう。独歩の絶筆なんで、漱石の「明暗」のように、本当はまだ続きを書くつもりだったのかなとも思ったんですが、そうでもないようですね。
K とても面白い終わり方だと思います。

老年文学について
W 今回、この「二老人」を読んでみて、ついでに老人を扱った小説のことを少し考えてみたんです。小池さんは、どんな作品が頭に浮かびますか?
K 「老人と海」ですね。
W ど真ん中の直球ですね。僕は、結構いろんな作品が思い浮かびました。これは、自分でも意外だったんですけどね。参考・引用文献のところに、いくつか並べておきました。
K あ、ヘミングウェイは入ってないですね。
W ここでは、特に印象深い作品をあげてみたいんですけど。まず、フランスの小説家、バルザックの「ゴリオ爺さん」です。1835年に出版されています。「二老人」の73年前ですね。新潮文庫で508ページもある長編小説です。バルザックの代表的な小説のひとつですが、僕は好きな作品で、何度か読んだことがあります。19世紀前半のパリの社会が見事にうつしだされています。また、この小説には老人問題の原型がすべて含まれているようにも思います。

このような小人的根性の持主のいちばん唾棄すべき習慣のひとつは、自分のけちくさい根性を他人にも想定することなのである。不幸にして二年目の終りには、ゴリオ氏はヴォケー夫人に、三階へ移って、下宿代を九百フランに減らしたいと言いだし、彼が対象となっている悪口を正当化した。彼は思いきった倹約を必要としたので、冬の間も部屋に火を起さなかった。ヴォケー夫人は、下宿代の前払いを要求した。ゴリオ氏はそれを承諾したが、このときから彼女は、彼をゴリオ爺さんと呼んだ。みんなが争って、この落魄の原因を探ろうとした。
(バルザック「ゴリオ爺さん」(平岡篤頼訳)18351972新潮文庫、42ページ より)

W ゴリオは60過ぎの元商工業者で現役時代の羽振りは良かったんですが、2人の娘のためにお金を使い果たして、今はパリのあまり高級でない下宿屋で一人暮らし。上の引用にでてくるヴォケー夫人が経営している下宿です。最初の「小人的根性の持主」というのは、このヴォケー夫人のことです。
ゴリオは今でも2人の娘にお金をせびられていて、どんどんお金がなくなっていきます。そのたびに、ゴリオは安い部屋に移り住むんです。面白いのは、下宿代が下がるにつれて、1階、2階、3階と部屋が上がっていくんですね。3階に移ったとたん、下宿の女主人に「ゴリオ爺さん」と呼ばれるようになってしまいました。
K どういうことですか。
W 階段しかない下宿なので、上の階の部屋のほうが家賃が安い。この下宿の女主人にとって、ゴリオは、はじめ、金ばなれのよい上等なお客さんで「ゴリオさん」と呼んでいたんだけど、お金がなくなってきて、安い部屋に移ったので、呼び方もぞんざいになって「ゴリオ爺さん」になった。みもふたもない話ですけどね。
この小説は群像劇なので、ゴリオだけが活躍するわけではないのですが、彼が主人公であることは間違いありません。この新潮文庫版の訳者、平岡篤頼さんの解説の中に、バルザックのノートが紹介されています。
 
「ゴリオ爺さんの主題。実直な男――安下宿――六百フランの年金――二人とも今は5万フランの年金がはいる娘たちのために無一文になるーー犬のような惨めな死に方」
(同上  511ページより)
 
W 先ほどの「職ありー職なし」と「独居―同居」の軸で考えると、ゴリオは「職なし、独居」なんですけどね。働いていた頃よりお金を潤沢にもっている老人って少ないでしょうから、健康問題と共に、金銭問題も大きな課題になりますね。
K お金は大きいでしょうね。
W 作家の筒井康隆が1998年に出版した「敵」という長編小説があります。75歳の元大学教授が、自分の身辺を具体的に記述した、実験的で大変に面白い小説なんです。この小説の主人公の渡辺儀助は、自分の葬儀にかかるであろう300万円しか有り金がなくなったら、自殺しようと考えています。そして、その時期がいつ頃になるだろうなんてことも予測しているんです。この老人も奥さんを亡くしていて「無職ー独居」ですけど。
K どちらもちょっと読んでみたいです。
W それから、これはさきほどの「ゴリオ爺さん」の解説で平岡さんが書いていましたが、「ゴリオ爺さん」、シェイクスピアの「リア王」にどこか似ています。リアには3人の娘がいるんですが、領土をゆずった長女と次女に裏切られて、少数の家来と共に放浪するはめに陥ります。黒澤明監督の映画「乱」の原作ですね。

 悪いやつも、もっと悪いやつがあらわれるとよく見えるものだ。最悪ではないということが少しはほめたくなるのだ。(ゴネリルに)おまえのところに行くとしよう。 

 ええい、必要を論ずるな。どんな卑しい乞食でも、その貧しさのなかになにかよけいなものを持っておる。
自然の必要とするものしか許されぬとすれば、人間の生活は畜生同然となろう。
(リア王の発言。シェイクスピア「リア王」(小田島雄志訳)白水社、16061983、第2幕第4場より。)

W よく独居老人の家が汚いとか、余計なものばかりため込んでる、一人で死んだとき、他人が迷惑するといったテレビの情報番組を見ることがあるんですけど、僕はここのリア王の「だれでも、なにか余計なものをもっている」「必要とするものしか許されぬとすれば、人間の生活は畜生同然」という言葉を思い出しますね。社会の寛容さって、このあたりのことで試されると思うんだけど。「それぐらい、いいじゃないか」ということで。
K 先生がそんなテレビを見たら、身に染みる思いでしょうね。よくわかりますよ。
W あと、青空文庫で読める老人文学としては、芥川龍之介の「玄鶴山房」もおすすめです。芥川の晩年の作品で、多くの家族に囲まれているんだけど、不幸な老人の状況が、たんたんと描かれています。この小説を推理小説仕立てにしたような松本清張の「六畳の生涯」という小説も面白かったです。
 川端康成の「山の音」や「眠れる美女」、谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」は老人の性を扱っています。井上靖の「比良のシャクナゲ」は、お年寄りが家出しちゃう。
 それから忘れてならないのは、有吉佐和子の「恍惚の人」です。僕もそうだけど、お年寄りの認知症に日本人が大きな関心を寄せるようになったきっかけは、この小説だったんじゃないかしら。1972年の出版と、もう40年以上前なんですけどね。森繁久弥の主演で、映画にもなりました。
 ところで、小池さんは老年社会学を専門にしてるわけですよね。この本は面白いとか、是非、読んでおいた方が良いって本ってありますか?
K モブ・ノリオの「介護入門」ですね。
W それは、全く知りませんでした。こんど読んでみます。
最近、老年社会学では、特にどんなことが問題になってるんですか?
K いやまさに、今日の話のようなことですよ。健康の維持と経済的な問題、それらの背景として社会保障費や介護や雇用、人間関係の問題とか。
W 小池さんの書いた論文のタイトルに「独居高齢者見守りサービス」とか「高齢者見守りセンサー」って言葉が出てくるじゃないですか。よかったら、少し教えてくださいよ。僕も切実と言うか、人ごとではないんで。
K たとえば一人で暮らしていてあまり他人と関わらない人だと、倒れたりケガで動けなくなった時に、そのまま亡くなってしまったり、まあ困ったりすると。それを防ぐための毎日人が訪問にくるサービスだったり、機械で動きの有無を検知するものだったりということですね。
W そうですか。このあいだ、NHKのニュースで見たんですけど、2035年の東京では、ほぼ半数の世帯が、独居というか、一人暮らしになるらしいですよ。高齢者に限らずにね。
K そうですね。高齢者も多くなりますよ。
W 以前このブログで、フランスの社会学者デュルケムの「自殺論」の中に出てくる自己本位的状態が、文明社会のなかでは、どんどん優勢になってきたという話が出たじゃないですか。「出来たら、一人でいたい」と言う気持ちを多数の人が持つようになり、またそれが可能になってきた。そのため、独居も未婚も離婚も自殺も当然のように増えてきた。良い悪いの問題じゃなくてね。
K ええ。
W ぼくは、もうすぐ高齢者ですけど、絶対に一人で暮らしたいですね。というか、自分以外の人間とは一諸に住めないと思う、わがままなんで。まあ、30年以上ずっと独り暮らしなわけですけど。これまでそうだったんだから、これからも同じでいたい。
 ただ「大人は良いけど、青少年には認められない」ということ、日本にはたくさんあるじゃないですか。青少年健全育成みたいなお題目で。これから、それが高齢者にも広がってくるんじゃないかと心配なんです。高齢者健全育成。お年寄りの生き方に網をかぶせるような施策。「後期高齢者」なんて無神経な言い方もでてきたし。
K 先生は絶対共同生活なんて無理ですね。これは断言できます。
W 何か、息苦しくなってくるんですよね。空気が薄くなって、「ううう、苦しい」みたいに。
高齢者の独り暮しが増えるのは、自然の動きだと思うんだけど、それを阻もうとする力が、行政の側から出てきて、自由な生き方が制約される心配があります。
ただそうは言っても、独居化は大きな流れです。国木田独歩の「二老人」では、独居の河田老人について「どうしてこんな人が出て来ちゃったんだろう」って感じで語られていますけどね。100年経ったら、あたりまえになった。
K 大きな変化がありましたね。
W 「独居老人って可哀そう」っていう目はいつまでもなくならないけど。僕の母も、最後の10年ほどは独り暮らしでしたけど、なんか伸び伸びして、毎日が楽しそうだったなあ。
K まあ、本当は誰かと一緒に暮らしたいけど叶わないっていう人も多いですからね。
W そうか。
もうひとつ、いいですか。僕はお医者さんが、一般の人向きに書いた本を読むのが好きなんです。数年前に病気してから、ずいぶん沢山読むようになりました。小池さんは、どうですか?
K いっさい読まないです。
W 僕は玉石混交って感じがするんですけど、お医者さんの書くもの。そのなかで、これはすごいと思うお医者さんを2人あげるとすると、近藤誠さんと江部康二さんですね。二人とも、もう何十冊と本を出しているし、数十万部売れた本もあるようです。一般の人の耳にも,2人の主張が充分にとどいていると言うか。
 近藤さんは、最近まで慶應大学病院の医師でしたが、現在のがん治療に疑問を呈していて「ガン放置療法」を推奨しています。次の引用は、近藤さんが最近書いた養生訓です。前回のブログに出てきた、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩のもじりになっています。

医者にも行かず クスリも飲まず  検診も人間ドックも受けぬ  変わった考えを持ち 
欲はあるようなないような  あまりカッカせず  いつも冗談を言って笑っている
毎日好きなものを食べ  酒も甘味も楽しみ 
カロリーや血圧を細かく勘定しないでよく楽しみ、
出歩き  そして安眠し  ひとり気ままにすごせる時間と空間がある
がんや不調があっても  年だものとつぶやき 
手術だと言われたら  切りたくないと言い
ワクチンや抗ガン剤も  副作用がイヤだと拒み
どこかで倒れても  救急車を呼ぶなと言っておく
日照りのときは出歩かず  寒いときは無理をせず
みんなにのんきと言われ  いよいよのときには  ありがとうと笑い
そういうふうに  わたしは死にたい
(近藤誠『「がんもどき」で早死にする人、「本物のがん」で長生きする人』幻冬舎、2013、192-194ページ、『「本物のがん」で長生きする人の養生訓 医者にも行かず』より)(改行を変更してあります。)

W 上の引用で、「どこかで倒れても 救急車を呼ぶなといっておく」というところがあるじゃないですか。ここがとってもおもしろいと思ってね。近藤さんは、たしか、自分でも「救急車を呼ばないように」と書いた紙片をいつも携帯しているそうです。
K へえ。土に還るまで置いておけばいいんですかね。
W 独居高齢者って、いつも倒れたときの判断が求められていると思うんですけど。僕も家の中で倒れて、状況によっては「これはもうこのままで、誰にも連絡せず、救急車も呼ばず、横になっていよう、これで終わりなんだ」と考える可能性はあると思うんです。高齢者でも、それぐらいの自由は認めてもらいたいんですけどね。ある種の自死なのかな。どうでしょう?専門家としては。
K さっき話した緊急時対応のサービスなんかも、そういうのを使いたい人と使いたくない人がいて、どういう人が使いたくないというかにも興味を持っています。たとえば男性で学歴が高くて社会的威信の高い職業に就いていた人にそういう人が多いんじゃないかなと予想していたり。
W 性格もあるんじゃないかな。僕みたいな人見知りする人間は、苦手だと思いますよ。見ず知らずの人に、やっかいはかけたくない。

ところで二〇〇一年に、ある大新聞の記者が取材にきたおり、「うちの会社では職場健診が半ば強制的に行われている。うけないと懲戒するという文書まで回ってくる」と語っていました。健診は人の健康や命に関することがらで、それを他人や会社が強制するのは、個人の自由の尊重を定めた憲法一三条に違反します(個人の検査値を他人や会社が知る点においてプライバシー権をもおかす)。この新聞社のトップの人の人権感覚はどうなっているのだろうと思いましたが、データ的根拠がない定期健診をそこまで信じこんでいる役員や健診担当者にも驚かされます。
   (近藤誠「成人病の真実」 文藝春秋社 2002 より) 

W 近藤さんは、健康診断の無用さも語っています。健康診断を受けた人と受けなかった人の死亡率に変化が無い、ということなんですけど。人の健康や命にかかわることがらで、他人や会社が強制するのは、憲法違反じゃないか、とまで言ってるんですよね。お医者さんが、ここまでふみこんで発言したのは聞いたことありませんでした。普通、健康や命にかかわることだからこそ、「人々の選択とか自由意思は認めない」と考えるんじゃないかと思うんですけど。法律で禁止したりして。
K いやあ、そんなに普通でもないでしょ。
W もう一人の江部康二さんは京都の病院のお医者さんですが、糖質(炭水化物から食物繊維を除いたもの)を取らないと、糖尿病をはじめとしたいろんな病気やダイエットに良いと書いています。僕が最初に読んだのは、作家の宮本輝さんと出した対談本でしたが、とても説得力がありました。主食や砂糖類を取らない療法なんですが、このお医者さんの言う通りにしてから、体の調子がとてもいいですね。ブログも毎日のように更新されていて、とても参考になります(「ドクター江部の糖尿病徒然日記」)。
K 近藤さんと江部さんの共通点って、あるんでしょうか?
W いくつかあると思います。 ①人に勧めることは、まず自分でも実践してること。②自分の言葉を使って、本を書いていること。③疫学的調査をもとに、科学的根拠に基づいて発言してること。④すごく勉強していること。⑤言ってることが、ぶれないこと。⑥、「敵は幾万ありとても」というか、多勢に無勢のなか、孤立を恐れず自分の信念を貫いていること。⑦専門家としての自負があって、その分野の権威にも立ち向かう勇気があること。⑧主たる読者層を一般の人においていること、などでしょうか。二人とも、とてもかっこいいですよ。他の専門家を完全に敵にまわしていますからね。
僕のような、ものぐさで、ぐうたらぐうたら生きている人間には、「健康診断の数値を気にしなくていい、がん検診にも行かなくていい」とか、「糖質以外は何をいくら食べてもいいし、お酒も飲んでいい」って、ぴったりなんですよ。ストレスが溜まりません。もちろん、人によるんでしょうけど。
K 意外と①が一番難しいというか、やってない人が多いような気がしますよ。
W近藤さんも、江部さんも、そのあたりは実に見事ですね。言動一致というか。
強制やお仕着せじゃなくて、良いと思ったことを、自分で自由に選べるって、すばらしいことだと思うけどなあ。

20144月 東京・大泉学園にて) 

<参考・引用文献>
国木田独歩   二老人 1908
―――――   牛肉と馬鈴薯 1901
―――――   武蔵野 1898
芥川竜之介   玄鶴山房 1927   
―――――   大導寺信輔の半生 1925 
チェーホフ   ワーニャ伯父さん 1897 
宮沢賢治   雨ニモマケズ 1931
夏目漱石   明暗 1916
                   (以上 青空文庫より)

国木田独歩  武蔵野 新潮文庫 1949
―――――  牛肉と馬鈴薯・酒中日記 新潮文庫 1970(「二老人」を収録)
中村光夫  日本の近代小説   岩波新書  1954
バルザック  ゴリオ爺さん(平岡篤頼訳)(解説・平岡篤頼) 新潮文庫 18351972
シェイクスピア  リア王 (小田島雄志訳)白水社  16061983
チェーホフ  六号病棟、退屈な話(他五編)(松下裕訳)  岩波文庫  2009
デュルケム  自殺論(宮島喬訳)中公文庫  18971985
村上春樹   遠い太鼓  講談社  1990
有吉佐和子  恍惚の人  新潮社  1972
松本清張   生けるパスカル (「六畳の生涯」を収録)角川文庫 1974
筒井康隆   敵  新潮社 1998
――――   創作の極意と掟  講談社 2014
近藤誠    成人病の真実  文藝春秋社 2002
――――   「ガンもどき」で早死する人、「本物のがん」で長生きする人 幻冬舎2013
宮本輝・江部康二  我ら糖尿人、元気なのには理由がある 東洋経済新報社 2009  
江部康二    主食をやめると健康になる  ダイヤモンド社 2012
川端康成    山の音  新潮社 1954
―――――   眠れる美女  新潮文庫  1967  
谷崎潤一郎   鍵・瘋癲老人日記  新潮文庫  1968
井上靖     猟銃・闘牛 (「比良のシャクナゲ」を収録) 新潮文庫 1950
モブ・ノリオ  介護入門  文春文庫  2007

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