2014年10月16日木曜日

第49章 にんじん

--にんじん」は、フランスの作家、ジュール・ルナールが1894年に30歳で書いた中編小説。自らの少年時代の生活と心情を率直に綴った自伝的な作品。(まとめ・渡部)--

W 今回は、前回の「博物誌」に引き続き、ルナールの作品です。小池さんは、前回、この「にんじん」という小説を、読んだことあると言ってましたよね。いつ頃ですか?
K 中学生の頃だと思います。
W その時の読後感みたいなものを覚えてましたか?
K うーん、正直あまり覚えていませんでした。
W 今回、読み返してみて、どうでしたか?
K たぶん当時はかなり共感をもって読んだんだろうなと思いました。全体的に非常に暗いですね。
W 僕は、子どもの頃、この「にんじん」の映画をテレビでみたことがありました。1932年にフランスのジュリアン・デュヴィヴィエ監督が作った白黒映画でした。印象深かった作品で、いくつかのシーンを、よく覚えていました。今回、DVDでもう一度観てみました。
 小説の方は、青空文庫と同じ、岸田国士さんの訳した岩波文庫版を持っていたんです。ただ、全部読んだわけではなかったので、今回、初めて全体を通して読んでみました。
K 通して読んで、どうでしたか?
W とてもおもしろかったです。岩波文庫ですと、本文だけで259ページもあるんですよね。少し、長めの中編小説。だけど、ほとんど筋がない。スケッチの集積というか、エピソードを積み重ねて、ある一家の様子を描いています。だから、本の好きなところを開いて、ぱらぱらと読める。
K そうですね。
W 芥川龍之介が「文芸的な、あまりに文芸的な」という文章の中で、「『話』らしい話のない小説」を礼賛していて、その代表的な作家としてルナールをあげています。「善く見る目」と「感じ易い心」をルナールの作品のなかに見るとも言っています。たしかに、筋や話があまりないから、全部読まなくても作品の雰囲気はなんとなくわかります。こういう小説、短編小説なら今でもよくあるけど、250ページ以上もある小説としては珍しいですよね。
K 主人公の強い感受性が非常に伝わってきます。
W もう一つの特徴は、自分の少年時代を思い出して書いていることと、決して過去の自分を良い子に描かないことですね。過去を美化しない。まわりの人間に対する眼も厳しいけど、自分に対しても厳しい。芥川龍之介の「大導寺信輔の半生」や太宰治の「思い出」といった自伝小説を思い浮かべました。
K なるほど。

彼はにんじんで通っているが、その通り方は、ひと通りではない。家のものが彼のほんとの名をいおうとしても、すぐにはちょっと浮かんでこないのである。
「どうしてにんじんなんてお呼びになるんです?髪の毛が黄色いからですか」
「性根ときたら、もっと黄色いですよ」
と、ルピック夫人はいう。
(ルナール『にんじん』「にんじんのアルバム 二」より)

 彼は、どうしても、ポケットへ手をつっこまずにはいられない。ルピック夫人がそばへ来ると、急いで引き出すのだが、いくら早くやったつもりでも、遅すぎるのである。彼女はとうとうポケットを縫いつけてしまった――両手をつっこんだまま。
 (同上 七 より)

W 主人公は中学生で、普段は学校で寮生活をしているんですが、長期休暇の時だけ、家に戻ってくる。「にんじん」というあだ名を母親のルピック夫人につけられています。お兄さんとお姉さんは名前で呼ばれてるんですけど。母親との関係はけっして良くない。彼女は家の用事をなんでも、にんじんにさせるんですけど、彼はほとんど逆らわない。家の用事をさせることで、子どもとの間に上下関係を築こうとしている感じです。
 父親のルピック氏は寡黙な人物で、彼が何を考えているのか、子どもたちにもよく分からない。家庭の主導権はルピック夫人が握っています。こういう家庭、今でもよくあるんじゃないかな。

 怠け者の兄貴、フェリックスは、辛うじて学校を卒業した。
 彼は、のうのうとし、ほっとする。
「お前の趣味は、一体なんだ」と、ルピック氏は尋ねるーー「もうそろそろ食って行く道を決めにゃならん年だ、お前も・・・。なにをやるつもりなんだい?」
「えっ!まだやるのかい?」
と、彼はいう。
 (同上  九より)

W 兄のフェリックスの「えっ!まだやるのかい?」ってところ、僕は好きだなあ。このやる気のなさというか、積極性皆無のところが。
弟のにんじんは、こういうことを言いそうにありません。もう少し真面目で、前向き。それだけに現在の状況についての不満も強い。
K にんじんは、まわりからすると何を考えているのか分からない人間なんだろうと思います。
W それは、たしかにそうですね。
 
雪合戦をすると、にんじんはたった一人で一方の陣を承わる。彼は猛烈だ。で、その評判は遠くまで及んでいるが、それは彼が雪の中へ石ころを入れるからである。
 彼は、頭を狙う。これなら、勝負は早い。
              (同上  十一より)

W さきほど、ルナールは自分の少年時代を美化して描かないと言いましたが、上の引用のところもそうですね。雪合戦で、雪の中へ石ころを入れて、人の頭をめがけて投げつけるんですから。他にも、猫やいろんな動物を簡単に殺してしまうという描写もありました。

 にんじんは、女中のアガアトに、次のように忠告をするーー
「奥さんとうまく調子を合わせようと思うなら、僕の悪口をいってやりたまえ」
これにも限度がある。 
 というのは、ルピック夫人は、自分以外の女が、にんじんに手を触れようものなら、承知しないのである。
 近所の女が、たまたま、彼を打つといって脅したことがある。ルピック夫人が駆けつける。えらい権幕だ。息子は、恩を感じ、もう、顔を輝かしている。やっと連れ戻される。
「さあ、今度は、母さんと二人きりだよ」
と、彼女はいう。
                (同上  十三より)
 
W上の引用のところは、映画にもでてきました。「さあ、今度は、母さんと二人きりだよ」といった後、ルピック夫人は、力をこめて、にんじんをひっぱたきます。彼女は、外向きには一家がうまくいっているように、つくろうんですね。
K はい。

「文句をいうのはおよし!いつまでもうるさいね。じゃ、お前は、あたしより父さんのほうが好きなんだね」
と、ルピック夫人は、折にふれ、いうのである。
「僕は現在のままさ。なんにもいわないよ。ただ、どっちがどっちより好きだなんてことは、絶対にない」と、にんじんの心の声が応える。
                (同上  十七より)

W 僕は子どもがいないんでわからないんですけど、親になると、子どもが自分と配偶者のどっちが好きかなんて、気になるのかな。映画では、ルピック夫人が面と向かってにんじんに、どっちが好きかを聞いて、「おかあさん」と無理矢理に言わせるんだけど。
K おお、こわいですね。
W 子どもの方から見ると、きょうだいと自分のどっちが親に愛されているかなんてことも気になりますよね。
K そうですね。

母親が自分のほうを向いて笑っていると思い、にんじんは、うれしくなり、こっちからも笑ってみせる。
が、ルピック夫人は、漠然と、自分自身に笑いかけていたのだ。それで、急に、彼女の顔は、黒すぐりの眼を並べた暗い林になる。
にんじんは、どぎまぎして、隠れる場所さえわからずにいる。 
               (同上  十九より)

W こういうこと、家庭を離れてもありません?前から来た人が笑いかけてくるんで、こちらも笑い返すんだけど、実は横にいたもう一人の人に笑いかけていたんで、自分は関係なかったということが。僕はしょっちゅうあったな。さすがに、ルピック夫人のように、自分自身に笑いかける人って珍しいと思うけど。
K ははは、おもしろい人ですねえ、先生も。

 事実、にんじんは、水をいれたバケツで自殺を企てる。彼は、勇敢に、鼻と口とを、その中へじっと突っ込んでいるのである。その時、ぴしゃりと、どこからか手が飛んできて、バケツが靴の上へひっくり返る。それで、にんじんは、命を取り止めた。
                (同上  二十二)

「もし、いつか、兄貴のフェリックスみたいに、誰かがお年玉に木馬をくれたら、おれは、それへ飛び乗って、さっさと逃げちまう」
 これが、にんじんの空想である。
                (同上  二十四より)
 
W この「にんじん」という小説と映画、少年の自殺を描いた作品という見方もできます。小説の中では、「首をつろうとした」と主人公が父親に告白するところもあります。   
映画の方は後半、にんじんの3回の自殺未遂を中心に話が進みます。「バケツの水に顔をつける」、「池に飛び込もうとする」、「納屋で首をつろうとする」の3回ですが。小説の方ですと、あまり自殺の件は強調されてませんよね。
K 小説と映画は少し違っているんですね。
W 映画の方が、「かわいそうな少年」という側面が強調されてますね。猫を殺したり、雪合戦の時、石ころを入れて相手の頭を狙うなんてところはありませんでした。
ヘルマン・ヘッセの小説「車輪の下」が代表的ですけど、ヨーロッパやアメリカには、子どもの自殺を扱った小説や映画がいくつかありますね。日本でも、「車輪の下」は1960年代の中学生の愛読書でした。
作家の筒井康隆さんに「不良少年の映画史」という、おもしろい2冊本のエッセーがあります。自分が子どもの頃、学校をさぼって盛り場の映画館で見た作品の思い出を書いたものなんですが、この「にんじん」という映画だけは、中学校から全校生徒が映画館貸し切りで見に行ったというんですね。日本では昭和9年(1934年)公開ですけど、大ヒットで専門家の評価も非常に高かったそうです。
K へえ。意外ですね。
W でも、今だったら絶対に学校からは見に行かないでしょうね、この映画。主人公が自殺しようとする場面、特に納屋で首をつろうとするシーンが、あまりにリアルで。今の学校だったら、まずそこを心配して、この映画には中学生を連れて行かないと思います。
K 行かないですね。そもそも映画館に行かないでしょう。
W あ、そうですか。1960年代の東京の中学校では、年に一度くらい、連れてってくれましたね。僕は「アルジェの戦い」という映画をよく覚えています。ただ、映画館があったのが新宿の歌舞伎町で、現地集合、現地解散でした。生まれて初めて行った歌舞伎町。

 彼は、父親と母親の間で、橋渡しを勤める。 
 ルピック氏はいうーー
「にんじん、このシャツ、ボタンが一つとれてる」
にんじんは、そのシャツをルピック夫人のところへ持って行く。すると、彼女はいうー
「お前から、指図なんかされなくたっていいよ」
 しかし、彼女は、針箱を引き寄せ、ボタンを縫いつける。
                 (同上  二十六より)

「これで、父さんがいなかったら、とっくの昔、お前は、母さんのことをひどい目に遭わしているところだ。この小刀を心臓へ突き刺して、藁の上へ転がしといたにきまってる」と、ルピック夫人は叫ぶ。
                 (同上  二十七より)

W 父母間の会話も少なくて、なにか険悪な雰囲気です。にんじんは、長期休暇の間も中学の寮にとどまりたいと言うんですけど、ルピック氏は賛成してくれません。

「僕としちゃあ、家族っていう名義は、およそ意味のないもんだと思うんだ。だからさ、父さん、僕は、父さんを愛してるね。ところが、父さんを愛してるっていうのは、僕の父さんだからというわけじゃないんだ。僕の友だちだからさ。実際、父さんにゃ、父親としての資格なんか、まるでないんだもの。しかし、僕あ、父さんの友情を、深い恩恵として眺めている。それは決して報酬というようなもんじゃない。しかも、寛大にそれを与え得るんだ」
「ふむ」
と、ルピック氏は応える。
              (中略)
 にんじんは、ひとり取り残されて、途方に暮れる。 
 昨日、ルピック氏は、物の考え方について、もっと修行をしろと、彼に注意したのであるーー
「我々って、いったいなんだ?我々なんて、ありゃせん。総ての人っていうのは、誰でもないんだ。お前は、聞いてきたことをぺらぺら言いすぎる。ちっとは自分で考えるようにしろ。自分一個の意見をいえ。初めは、一つきりでもかまわん」
 最初に試みたその意見が、さんざんなあしらいを受けたので、にんじんは、暖炉の火に灰をかぶせ、椅子を壁に沿って並べ、柱時計におじぎをして、部屋へ引き退る。
         (同上「自分の意見」より)

W 上の引用「自分の意見」という部分は、小説の最後の方なんですが、僕はなかなかおもしろかったです。まず父親が主人公に、人から聞いた話じゃなくて、もっと自分の意見を言うように求めるんです。それで、にんじんは彼なりの家族論を披瀝するんです。ルピック氏は、自分にとって父親ではなくて友だちだ、だから愛するんだというわけです。でもこの演説は家族には不評に終わってしまいました。 
K 聞く耳がなかったわけですね。

「世の中がひっくり返った。世の終わりだ。さあ、あたしゃ、もう知らない」と、へこたれて、ルピック夫人はいったーー
「あたしゃ、引き上げるよ。誰か口を利いてみるさ。そして、あの猛獣を手馴ずけてもらいましょう。息子と父親と対い合って、あたしのいないところで、なんとか話をつけてごらん」
「父さん」と、にんじんは、こみあげてくる感情の発作のなかで、締めつけられるような声を出した。ものを言うのにまだ調子が出ないのであるーー「もし、父さんが、水車へバタを取りに行けってんなら、僕、父さんのためなら・・・父さんだけのためなら、僕、行くよ。母さんのためなら、僕、絶対、行くのいやだ」
 ルピック氏は、この選り好みで、気をよくするどころか、むしろ、当惑の体である。   
           (同上「叛旗」より)

W ここの「叛旗」という断章で、これまで母親のいいつけた用事にはすべて従ってきた主人公が、はじめて「いやだ」といいます。ルピック夫人はうろたえます。次の「終局の言葉」というところでは、父と子が話し合いをします。

にんじんーーそりゃそうさ、他の者は他の者で苦労はあるだろうさ。でも、僕あ、明日、そういう人間に同情してやるよ。今日は、僕自身のために正義を叫ぶんだ。どんな運命でも、僕のよりゃましだよ。僕には、一人の母親がある。この母親が僕を愛してくれないんだ。そして、僕がまたその母親を愛していないんじゃないか。

 「そんなら、わしが、そいつを愛してると思うのか」
 我慢ができず、ルピック氏は、ぶつけるようにいった。
              (中略)
 一時(いっとき)、にんじんは、口をきくことができない。この秘かな悦び、握っているこの手、ほとんど力まかせに縋(すが)っているこの手、それがすべてどこかへ飛んでいってしまうような気がするのだ。
 やがて、彼は、拳を握り固め、闇の彼方に、うとうとと眠りかけた村のほうへ、それを振ってみせる。そして、大袈裟な調子で叫ぶーー
「やい、因業婆(いんごうばばあ)! いよいよ、これで申し分なしだ!おれはお前が大嫌いなんだ!」
「こら、止せ!なにはともあれ、お前の母さんだ」
と、ルピック氏はいう。
「ああ」と、にんじんは、再び、単純でしかも用心深い子供になりーー「僕の母さんだと思ってこういうんじゃないんだよ」  
                (同上「終局の言葉」より)

W 出ました、因業婆。にんじんは、この「わしが、そいつを愛していると思うのか」の一言で救われる。他の言葉は全く必要ない。自分とルピック氏を結ぶ線が、ルピック氏とルピック夫人を結ぶ線より太いことが、その一言で確認できた。
K うん。

ルナアルの世間の狭め方はたしかに異様であって、利己とか独善とか逃避とかいう言葉が、どうしても当てはまらぬ一種の苦さが感じられるところに、この作家は梃子でも動かぬ根をおろしてしまっている。間口を拡げたジイドには、ついに張れなかった根を張っているように思われる。
 ルナアルの「日記」は田舎の村長をしていた父親の自殺の年から始る。
             (中略)
彼の父親がどんな人物であったかは述べまい。「にんじん」を読んだ人には、この人物は既に親しい筈だ。この確固たる平凡人が、或る日、驚くべき果断で、鳥でも打ちに行く様にドカンとやって了う。
     (小林秀雄「ルナアルの日記」 『作家の顔』(新潮文庫)より)

W 上の引用は小林秀雄の「ルナアルの日記」という文章からのものですが、「にんじん」という作品のその後がわかります。「にんじん」の発表後、ルナールの父親は猟銃自殺してしまいます。母親も後に、井戸に落ちて変死してしまうんです。「ルナールの日記」は、大人になったにんじんが、なにを考え、なにを感じたかが、20年以上にわたって詳細に描かれています。新潮文庫に入っていて僕は持っていますが、現在、絶版のようです。青空文庫にも是非入れていただきたい作品です。
K そうですか、読んでみたいですね。
W ところで、小池さんは大学時代、家族社会学の授業とか、とったことありますか?自分で、本読んだというのでも良いんだけど。
K 授業はとったことないですが、本は読んだことあります。
W その中で、なにか覚えていることありますか?
K いろいろありますが、そんな漠然と聞かれても。
W 僕は大学時代、1970年代だけど、家族社会学の講義を取りました。内容はほとんど、忘れてしまったけど、三つだけ覚えていることがあります。一つは、核家族内の父親の役割と母親の役割といったものでした。たしか父親が道具的リーダー、母親が表出的リーダーで、父親は外からお金を稼いできて、家族が成り立つようにする。母親は、家族内の融和をはかるというか、家族成員が仲良く暮らせるようにする。子どもは、そうした父親と母親の働きを助けるといったものでした。こうした考え、どう思います?
K 今そんなこと言ったら、大批判されるでしょうね。
W 当時、こういう社会学が流行っていたんですけど、僕も違和感あったんですよね。必ずしも父親の役割、母親の役割と限定しなくても良いと思ったし、第一、父親や母親のいない家庭はどうなるんだって。父親と母親が逆であっても良いし、道具的リーダーや表出的リーダーが2人ずついたってかまわない。あんまり、お金稼いでこないお父さんだって良いじゃないですか、別に。親よりしっかりした子どもだっているだろうから、子どもがリーダーになったって良い。要するに父親役割、母親役割という言い方に抵抗があったんです。もっと、自由に考えて良いんじゃないかって。
K はあ。
W 二つめは、親の育て方が、子どもの人格を決定するという考え方でした。親の育て方、特に過保護、過干渉、無視、放任などが、子どもの好ましくないパーソナリティーを生むという説でした。このあたりは、どうですか?
K まあ、多少影響はあるんじゃないですかね。
W 僕は、そう簡単にいくわけじゃないだろうと思いました。親の育て方をこえたところで、子どもは自分の人格を作っていくもんじゃないかって。ルピック氏とルピック夫人の間にできた3人の子どもだって、それぞれ全然違う人間になっていくわけだし。
K でも3人の育て方は違う。
W それは、そうだけど。それに、最終的には、バランスの取れた子育てが望ましいと言うんだけど、それって、実質的には何も言ってないというか、あたりまえのことを言ってるにすぎないんじゃないかって思ったことを覚えています。常識的すぎるというか。
K それはそうですね。
W だから、今あげた二つの説については、あまり良い考えだと思わなかったんです。まあ、40年覚えていたんだから、なんらかの影響力はあったんでしょうけど。自分の講義で喋ったこともあるんですけど、良い説だと思ってないんで、迫力無いんですよね、話に。あまり詳しく説明しないし。
K でも覚えている。
W ただ次の三つめの説は、とても面白いと思いました。それは、成員の数に関する話なんです。たとえば、この「にんじん」の話は、5人家族ですよね。そうすると、二人同士の関係は、10通りになる。家政婦も入れて6人家族と考えると15通りになると言うんです。「成員の数」に「成員の数-1」を掛けて2で割る。まあ、小学校の算数ですけど。
K 小学校ではやらないです。
W そうですか。僕はこの2人関係の数の話を大学の授業で聞いたとき、家族のことじゃなくて、中学や高校のクラスのことが頭に浮かびました。たとえば、僕の通っていた高校は1クラス、50人の生徒がいました。すると、二人の関係は50×49÷21225通りにもなる。すると、自分とある友人が、このクラスの中で一番仲の良い2人だと考えても、きっともっと仲の良い2人がいたんじゃないかと思えました。1225通りですからね。そこで一番になるのは、とても難しい。もちろん、一番仲の悪い2人でも同じですが。
 それから、この1225通りには、「一度も喋ったことのない」という関係も含まれますね。僕の通っていた高校は一度もクラス替えがなかったですが、女生徒で3年間、一度も口をきいたことのない人が半分近くいました。われながら、なにをやっていたんだか。
K 過剰に意識していたんだって、前に言ってましたね。
W この数字の話が、なぜ家族社会学で出て来たのかは、はっきり覚えていないんですが、きっと、子どもの数が減って、家族の構成メンバーが減ると、2人同士の関係も急速に減ってゆくという問題意識というか危機感だったんじゃないかしら。
先ほど、6人家族で15通り、5人家族で10通りと言いましたが、4人だと6通り、3人だと3通り、2人だと1通りになってしまいますからね。まあ僕はそんなに「問題だ、困ったことだ」とは思いませんでしたけど。もともと人間嫌いなんで、人が沢山いるところに放り込まれると、わけがわからなくなっちゃう。
K ケースが少ないと逃げ場がないというようなことですかね。
W それはあるのかな。僕は、やはり2人関係が重要だと思います。3人以上の関係じゃなくて。家族だ、クラスだと言ったって、結局は2人関係が基礎で、あとはそれが束になるだけじゃないか、ということなんですけど。
K 先生がそう思っているってことですか?
W そうですね。3人の集団というよりは、2人関係の3つの束。50人の集団というよりは、2人関係の1225個の束。少なくともそこを起点にしないと、集団って、わけがわからなくなる。
ルナールの小説に戻りますと、にんじんは、父親の「わしがそいつを愛していると思うのか」という一言で救われる。家族の中で自分とルピック氏との線が最も濃いことがわかって、生きる希望が湧いてくるんです。家族全体について「ああだ、こうだ」と言うんじゃなくてね。「仲の良い家族」とか「まとまりのある家庭」とか。
ルピック氏とにんじんの2人は、「父親と息子ではなくて、15通りの人間関係の中の一つの関係なんだ」という見方もできます。「父親とか息子という役割に過度にしがみついちゃいけないんじゃないか」ということなんですけど。父親と息子という言葉はいらない。あくまで自分と、もう一人の人間という2人の関係が深く結びつくことが重要というか。にんじんの言葉で言えば、「僕の友だちだからさ」ということになる。「お父さん」じゃなくて「ルピックさん」と呼んでいることもあるし。
K なるほど。
W 家庭での子どもの教育とかいうことになると、教育する方は自分を親という役割に固定化しようとします。すると、息子や娘も子ども役割に固定化されがちになります。また親は、夫婦間の亀裂を子どもに見せないように努めます。実は2人、とても仲が悪くても。息子に向かって、「わしがそいつを愛してると思うのか」とはなかなか言えない。親役割に縛られて。2人関係の束のことよりも、集団としてのまとまりをまず考えてしまう。そういうことじゃないかしら。

  (201410月 東京・大泉学園にて)  

<参考・引用文献>
ルナール   にんじん(岸田国士訳)1894
――――   博物誌(岸田国士訳)18961904
岸田国士   ジュウル・ルナアル 1926 
――――   「にんじん」の訳稿を終へて 1933 
――――   “にんじん”を観て 1934
芥川龍之介  文芸的な、あまりに文芸的な  1927
―――――  大導寺信輔の半生 1925 
太宰治    思い出  1933
                       (以上、青空文庫より)

ルナアル   にんじん(岸田国士訳)岩波文庫 18941950
ルナール   ルナール日記(一)(18871893)(岸田国士訳) 新潮文庫 1954  
ヘッセ    車輪の下(高橋健二訳) 新潮文庫 19061951 
筒井康隆   不良少年の映画史 PART1(「にんじん」を収録)文藝春秋 1979

小林秀雄   作家の顔(「ルナアルの日記」を収録)新潮文庫 1961

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