2014年5月13日火曜日

第44章 ジーキル博士とハイド氏の怪事件

--ジーキル博士とハイド氏の怪事件」は、イギリスの小説家・随筆家のロバート・ルイス・スティーヴンソンが1886年に出版した中編小説。二重人格を取り上げた作品としてよく知られ、日本でも多くの翻訳が刊行されている。(まとめ・渡部)--

W 今回は、イギリスの作家、スティーブンソンの「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」です。この小説、小池さんは読んだことありましたか?
K 今回初めて読みました。存在は知ってましたけど。
W 僕は2007年に一度読んだことがあって、今回で2度目です。異なる翻訳者のものですが。
スティーブンソンについては、夏目漱石がよく書いたり、喋ったりしています。スティーブンソンが1850年生まれ、漱石が1867年生まれです。ほぼ同時代人ですね。小池さんと僕より年齢差が小さい。
K そういう年代なんですね。

西洋ではスチヴンソン(Stevenson)の文が一番好きだ。力があって、簡潔で、クドクドしい処がない、女々しい処がない。スチヴンソンの文を読むとハキハキしてよい心持だ。話も余り長いのがなく、先ず短編といふてよい。句も短い。殊に晩年の作がよいと思う。Master  of  Ballantrae などは文章が実に面白い。
 スチヴンソンは句や文章に非常に苦心をした人である。或人は単に言葉丈けに苦心をした処が後に残らんといふ。さういう人はどういう積りか知らぬが、スチヴンソンの書いた文句は生きて動いて居る。彼は一字でも気に入らぬと書かぬ。人のいふことをいふのが嫌いで、自分が文句をこしらえて書く。だから陳腐の文句がない。其代り余り奇抜過ぎてわからぬことがある。又彼は字引を引繰り返して古い人の使わなくなったフレーズを用ひる。さうして其実際の効能がある。スコツトの文章などは到底比較にならぬと思ふ。スコツトは大きな結構を造るとかいふことにはうまいが、文章に贅沢な人からいへばダラダラして読まれぬ。
(夏目漱石「余の愛読書」(談話) 1906、「漱石全集 第25巻 別冊上」 岩波書店 1996153154ページより)

W 漱石は、スティーブンソンのこと、大変に褒めていますね。ほぼ絶賛というか。書かれている内容や筋書きの巧拙ではなくて、文章の面白さみたいなところを褒めています。文章の専門家だから、当然そうなるんでしょうけど。
漱石のイギリス留学が1900年から1903年までですから、当時、もうこの「ジーキル博士とハイド氏」は発表されていました。スティーブンスン自身は、1888年にサモア島に移住し、1894年には44歳で死んでいますから、ロンドンで二人が会ったことはないわけなんですけど。
K 38歳で島に移住しちゃったってことですか。
W 病弱だったので、暖かい南の島に転地したんですね。それから「山月記」を書いた中島敦が、スティーブンソンのサモア島での生活を「光と風と夢」という小説にしています。
K 前に出てきましたね。
W この「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」という小説、新潮文庫だと120ページ、講談社文庫だと108ページあります。中編小説ですね。小池さんは、読んでみてどう思いました?
K 二重人格の話だと思っていましたが、実際には精神病の話とは少し違ってSFですね。初めのほうは、ちょっとわかりにくいんですが、途中からぐっとわかりやすくなって、引き込まれました。
W 130年近くも前に書かれたSF小説ということですか。この小説、10章構成ですが、大きく2つに別れます。「戸口の話」からはじまる9つの章と、最後の章「この事件に関するヘンリー・ジーキルの委しい陳述書」の2つです。最後の1つの章と言っても、分量的には全体の30%をしめています。内容的にも、ここがこの小説の中心部分ですね。
夏目漱石の小説「こころ」で言うと、「先生と遺書」にあたる部分です。「先生と遺書」は、「こころ」という作品の約半分の長さをしめていますけど。ともに死を決意した人間の遺書の形で書かれています。
K 僕はとくに最後の章が気に入りました。
W 前の9つの章では主に、弁護士のアッタスンという人が語り手を勤めます。医学博士で法学博士でもあるジーキルの古くからの友人なんです。僕は、このアッタスンという人物が、なかなか興味深く描かれていると思ったんですけどね。
K どういうところがですか?
W 消極性がめだつというか、ジーキル博士の事件に、いやいや関係を持つことになります。まきこまれ型、というのかな。彼はジーキル博士の不思議な遺言書を預かったので、ジーキルのことをほっとけなくなる。
以前、このブログの23章でポーの「盗まれた手紙」をとりあげた時、三島由紀夫の「推理小説批判」という短い文章を紹介しましたよね。そこで三島は「あらゆる名探偵というやつに、私はでしゃばり根性の余計なおせっかいを感じるが」と述べていました。「ジーキル博士とハイド氏」では、このアッタスンという弁護士が、探偵役を引き受けるわけです。    
ちっとも名探偵ではないんですが、「できたら、こんな事件には、まきこまれたくなかった」と感じさせるところが、おもしろかったです。内気で積極性皆無というか。推理小説の探偵役では珍しいパーソナリティーなんじゃないのかな。
K なるほど。

ただ偶然にできた出来合いの友人だけで満足しているのは内気な人間の特徴であるが、この弁護士の場合もそうであった。彼の友人といえば、血縁の者か、でなければずうっと永い間の知り合いであった。
スティーブンソン「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」(佐々木直次郎訳)より)

「もともと僕は人のことを詮索するのが嫌いなんです。そういうことは何だか最後の審判みたいでね。何か詮索を始めるとしますね。それは石を転がすようなものですよ。こちらは丘の頂上にじっと坐っている。すると石の方はどんどん転がって行って、ほかの石を幾つも転がす。そして、まるで思いもよらぬどこかの人のよいお爺さんが自分のとこの裏庭で石に頭を打たれて死に、そのためにその家族の者は名前を変えなければならなくなったりしますからね。いいや、僕はね、これを自分の主義にしているのですよ。物事が変に思われれば思われるだけ、それだけ益々詮議しない、というのをね。」
「それはなかなかよい主義だ、」と弁護士が言った。
(同上)
 
アッタスン氏は深い溜息をついたが、一言もいわなかった。すると若者の方がつづけてまた言い出した。「何も言うものではないという教訓をまた一つ得ましたよ、」と彼は言った。「自分のおしゃべりが恥ずかしくなりました。このことはもう二度とは触れないという約束をしようじゃありませんか。」
「よろしいとも、」と弁護士は言った。「約束しよう、リチャード。」
(同上)
    
W上の3つの引用のうち、最初の引用は、アッタスン弁護士の性格を述べています。内気な人間は、出来あいの友人で満足する、なんて言ってますね。自分から積極的に人間関係を開拓したり、広げたりしない。その気持ち、よくわかります。
K 出来合いの友人という言い方が面白いです。
W 2つ目の引用は、アッタスンが日曜日に一緒に散歩する遠縁の若者リチャードの言葉からはじまり、アッタスンがそれに同意しています。やはり、消極的な行動を礼賛してるわけですけど、ここで書かれていること、僕は賛成ですね。どんな人でも、人から詮索されると、なんか出てくる。「問題は見つけようとするから、発見されるんだ」と言っているように思えるんですけど、どうでしょう?
K いいこと言ってますね。とくに渡部先生なんかだといくらでも出てきますよね。
W あはは。なんて答えたらいいのか、わかりません。
ただ、ここの「詮索」という言葉、原文では、「a question」なんですよね。僕は、この小説、最初に読んだのが、海保眞夫さんの訳で、そこでは「質問」になっていました。
いろんな翻訳書を見てみると、「詮索」(佐々木直次郎、田中西二郎、野尻抱影、日高八郎)、「詮議立て」(小沼孝志)、「質問」(海保眞夫)「人になにかを問い質(ただ)す」(夏来健次)「ひとつの問いかけ」(村上博基)などいろいろです。
K 訳者によって幅がありますね。
W 僕は、最初に読んだ海保さんの「質問」や村上さんの「ひとつの問いかけ」が好きなんですけどね。他の訳語より意味の範囲が広いでしょ。ニュートラルというか。「聞く側がなんの意図も持たずに、たまたま聞いたことが、聞かれた本人を追い込むこともある」というように読めます。こういうこと、よくあるんじゃないかしら。
「質問」や「一つの問いかけ」でさえ、こういうことが起こるんだから、「詮索」や「詮議立て」それに「意見」や「注意」「説教」なんかは、なおさら駄目ということになりますよね。とんでもないことが起こりうる。
K 「質問」と「詮索」だとずいぶん印象が違いますが。たしかに「質問」としたほうが深いですね。
W 上の3つ目の引用は、リチャードのしゃべったことを、アッタスンが既に知っていたことがわかって、リチャードが後悔するところです。やはり「沈黙は金」というか。
このあたり読んでいると、なにも事件なんか起こりそうもなくて、とっても良いんですけどね。「このまま帰りましょうか」みたいな感じで。
K 最初のほうは何の話なのかな、これって思いますね。
W この「ジーキル博士とハイド氏」のストーリーは多くの人に知られていますよね。結局、ジーキルとハイドが同一人物で、ジーキル博士が発明した薬を飲むと変身できるということで。その種明かしは、最後の章「この事件に関するヘンリー・ジーキルの委しい陳述書」の中で明かされています。とても迫力があるところです。一人称で書かれてますしね。
今では、だれでも知ってるけど、1886年にイギリスで発表された時は、みんな驚いたんじゃないかな。特に、この最後の章の部分。この本、すごくよく売れたそうですし。
K 驚いたのもあるかもしれませんが、何かこう納得させるものがあったんじゃないでしょうか。誰もが持っている欲望を言い当てているような。
W たしかに、そうですね。後年、フロイトが明らかにした、人間の意識の底に横たわる、広大な無意識の存在を、大胆にひっぱりだした。
次の引用からは、最後の章、ジーキルの遺書の部分です。

だが、実のところ、私の一ばん悪い欠点は抑えることのできない快楽癖だった。それは、多くの人たちを楽しませもしたが、また、気位が高くて世間の前では人並以上にえらそうな顔をしていたいという私のわがままな欲望とは、折合い難いものであった。そのために、私は自分の遊楽を人に隠すようになり、分別のある年頃になって、自分の周りを見回し、世間での自分の栄達と地位とに注意するようになると、私はもはや深い二重生活をしていたのであった。  
 (同上)

W ここで言われている快楽癖って、どうですか、小池さんの場合?
K どうですかね。自分はあんまり抑えている気はしてないです。抑えるほどに強くなるんじゃないですかね、こういうのって。

私がやったような不品行は、かえって世間に言いふらした人も多いだろう。しかし、私は、自分の立てた高い見地から、それをまるで病的と言ってもよいほどの羞恥の念をもって眺め、また隠したのである。だから、私をこんな人間に作り上げ、また、人間の性質を二つの要素に分けている善と悪との領域を、私の場合にあっては、大部分の人よりも一そう深い溝をもって切り放したのは、私の欠点が特別に下劣であるためよりも、むしろ私の理想を追う心が厳しすぎたためであった。
(同上)

W ここで興味深いのは、自分の欠点が特別に下劣だったからではなくて、羞恥の念が強かったり、理想を追う心が厳しすぎたので、悪い結果を招いたと言ってるところですね。僕も気をつけなくっちゃ。
K 気をつけてください。

私はひどい二重人格者ではあったが、決して偽善者ではなかった。私の善悪両面とも、いずれも飽くまで真剣であった。私は、学問の進歩のために、または人間の悲しみや苦しみを救うために公然と努力している時も、自制をすてて恥ずべき行いにひたっている時も、同じように私自身であった。
(同上)

この互いに調和しない二つの薪たばがこのように一しょにくくりつけられているということーー意識という苦しみの胎の内でこの両極の双生児が絶えず争っていなければならないということが、人類の禍いであったのだ。では、どうしてこの二つを分離させようか?
(同上)

W 自分の中の悪徳と理想を何とか分離したいとジーキルは考えます。そして、自分の発明した薬を飲むことで、それが可能になります。

それなのに、鏡の中にその醜い姿を眺めた時、私はなんの嫌悪も感じないで、むしろ跳び上るような歓びを感じた。これもまた私自身なのだ。それは自然で人間らしく思われた。私の眼には、それは、私がこれまで自分の顔と言い慣れてきたあの不完全などっちともつかぬ顔よりも、一そう生き生きした心の映像を示していたし、一そうはっきりして単純であるように見えた。そしてここまでは確かに私の考えは正しかった。
(同上)

W ハイドの醜い姿を眺めた時、嫌悪ではなく、歓びを感じたと書いています。このあたり、どうでしょう?
K 分かりますね。醜いかどうかはともかく、今と別のもう一つの姿を得られて、それはもともとの姿とかけ離れているほど楽しいんじゃないかなと。
W ネットの匿名の掲示板に、人の悪口を書くなんていうのは、こんな感じかな。性も年齢も職業も全く違う人間として発言したり。

ジーキル(混合物であるところの)は、時には非常に過敏な懸念をもって、時には貪るような興味を以て、ハイドの快楽や冒険を計画し、それを一しょにやった。けれどもハイドは、ジーキルには無関心であった。もしかすると、山賊が追跡から逃れるために身をかくす洞穴を憶えていると同じくらいにしか彼を憶えていなかった。ジーキルは父親以上の関心をもち、ハイドは息子以上に無関心であった。
(同上)

ハイドのジーキルに対する憎悪は、それとは違った種類のものであった。彼の絞首台への恐怖はいつも彼を駆りたてて一時的に自殺させ、一個の人間ではなくてジーキルの一部であるという従属的地位に返らせた。しかし、彼はそんなことをしなければならぬのを嫌い、ジーキルが近ごろ元気がなくなっているのを嫌い、自分自身が嫌われているのを怒った。そのために彼はよく私に猿のような悪戯をし、私の書物のページに私自身の手跡で冒神の文句をなぐり書きしたり、手紙を焼きすてたり、私の父の肖像画を破ったりした。
(同上)

W 上の一つ目の引用では、最初のうち、ハイドはジーキル博士には無関心だったと書かれています。しかし、時間の経過とともに、ハイドはジーキル博士の存在を強く意識するようになる。いろんな意味で、嫌悪感を持つんですね。
K だんだん別人格として固まってくるというような印象ですね。
W 「ジーキル博士とハイド氏」と言うと、二重人格の話と捉えられることが多いですが、最後の遺書を書いているジーキルは、また別者ですよね。博士とハイドの間で、おろおろ、うろうろする。三重人格と言うか。
K ああ、なるほど。
W これは間違いなく多くの人が指摘していると思いますが、どうしてもフロイトのイド、自我、超自我の3層構造を連想してしまいますね、この小説。イドがハイド氏、超自我が博士、自我が遺書を書いているジーキル。次の引用は、フロイト本人が、1926年に書いたものです。

心的局所論   局所論的には、精神分析は、心的装置を、部分から組み立てられた装置とみなし、その中のどういう点で、心的過程が起こるかを決定しようとつとめている。いちばん最近の精神分析の理論によると、心的装置は、本能的な衝動(インパルス)の貯蔵庫であるエス(イド)(Es)、エスのいちばん表層の部分であり、外界の影響をうけて修正された自我(ego)、およびエスから発達し、自我を支配し、人間の本能的な特性をおさえつける超自我(superego)からなる。(後略)
  (フロイト  精神分析『大英百科事典』第十三版(1926年)、フロイト『精神分析入門 下  付録』(安田徳太郎・安田一郎訳)角川ソフィア文庫 1970より)
        
W フロイトの3層構造論より、「ジキル博士とハイド氏」の方が古いんですけど。ここのフロイトの文章で面白いのは、自我も超自我も、もともとイド(エス)から生じているというところですね。一番本質的な部分はイド(エス)だって書いているように読めるんですけど、どうでしょう?
K あんまり覚えていないですけど、時間的にイドが最初に作られて、その後成長とともに他のものができてくるっていう話じゃなかったでしたっけ。
W そうそう。どちらにしても、超自我が強すぎると、ろくなことないんですよ。以前、萩原朔太郎のところでしゃべりましたけど、僕も中高校生の頃に、強迫神経症の兆候があって、一つの観念に取りつかれて、そのことばかり考えてしまいました。結局、「最悪の事態になったら、なったでいいや」と考えるようにしたら、その兆候が消えました。これって、自分の強い超自我をつきくずそうという働きですよね。
小池さんは、この小説でほかにおもしろかったところとかありましたか?
K 面白いところというか、物語が破局に向かうのは、ハイドが殺人を犯しているからですよね。もしハイドがそこまでのことをしていないで、このままジーキルに戻ることなく完全に変身してしまうというもう一つのストーリーがあり得るのかなと考えました。
W そっちの方が、現代風ですよね。是非、小池版を書いてみて下さいよ。
僕は、ジーキル博士が立派な学者だとか、慈善家だとかが、あまり強調されていないところが興味深かったですね。アッタソン弁護士もそうだけど、それこそ自然に描かれている。ジーキル博士自身は、「自分は理想を追いかける力が強すぎた」、フロイトの言葉でいえば、「超自我が強大過ぎた」と言ってるわけですけど。
K そうですね。
Wこの小説に影響を受けたというか、似た作品は知ってますか?映画やテレビドラマでもいいんですけど。
K たくさんあると思うんですが、ぱっと出てきません。僕はどちらかというとこの話を読んでいて、テレビのワイドショーや週刊誌の記事なんかを連想しました。好感度の高いタレントや政治家の裏の顔を暴くという欲望って、けっこう普遍的なものですよね。
W なるほど。言われてみるとそうですね。偶像破壊の欲求。
僕は作家の有吉佐和子が書いた「悪女について」という長編小説を思い出しました。1978年に発表されて、テレビドラマにも2度なりました。2012年に放映された新しいドラマのことは知りませんでしたが、昔の連続ドラマは、半年間、毎週、わくわくしながら見ていました。1時間ドラマでしたが。
怪死した富小路公子という女実業家について、彼女を知っていた27人の人間が、インタビューに答えるという形で話をするという設定です。何が真実か分からないという点で、芥川龍之介の「藪の中」にも似ていますが、「悪女について」は、一つの事件についてじゃなくて、ある女性の一生について語られています。ただ、本人は死んでしまっているので無言なんです。彼女にだけは、話をさせない。
そして、27人のインタビューでは、みんな言うことが違う。2人の息子も発言しますが、彼女に対する評価は大きく異なります。長編小説なんですけど、この27個のインタビューしか書いてない。作者の見解もありません。
僕は、この小説、事実は一つしかなくて、「見る人の距離や角度によって見え方が違ってくるんじゃないか」とずっと思っていたんですよね。死んだ女性の内実は一つなんだって。だけど、今回、「ジーキル博士とハイド氏」を読み返していて、おもしろい記述にぶつかりました。    

私が二つのものであると言うのは、私自身の知識の程度がその点以上には進んでいないからである。今後この同じ方面である人々は私の後に続き、ある人々は私を追い越すであろう。それで私は、人間というものはさまざまの互いに調和しない独立の住民からなる単なる一団体として結局は知られるようになるだろう、ということを思い切って予言しておこう。       
(「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」より)

W 一人の人間は「さまざまの互いに調和しない独立の住民からなる単なる一団体」とジーキル博士は書いてるんです。「悪女について」の女主人公について、こうした観点からも読めるのかな、と思いました。社会学的ではなくて心理学的な見方になりますけど。
K いや、それはむしろ社会学的だと思います。スキゾキッズのことを思い出しました。
W 浅田彰さんが1980年代に使って、非常に注目を浴びた言葉でしたね。簡単に、解説して下さいよ。
K スキゾは統合失調症のことですが、一つのことにこだわらずにいろいろなものに関心を持って、その場その場で生きていくというようなことですね。

スティーブンソンについて

W 最後に、作者のスティーブンソンについて、もう少し触れておきましょう。僕も彼には、いくつか思い出があります。略年譜を作ってみました。 

スティーブンソンの略年譜
1850  スコットランドで生まれる
1880  結婚
1881 『若い人々のために』(随筆集)刊行
1882 『新アラビア夜話』刊行 
1883 『宝島』刊行
1886 『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』刊行
1888 南太平洋の島々をめぐり、サモア島に移住
1894 サモア島で、44歳で病死  
(『新アラビア夜話』(南雲竹則・坂本あおい訳)光文社古典新訳文庫 2007  附属の年譜より作成)

W スティーブンソンというと、子供でも知っている作品は、「宝島」と「ジーキル博士とハイド氏」ですね。青空文庫には、全部で7点入っていて、「宝島」も読めます。
K 僕はそういうの全然読んだことないんですよ。
W 「宝島」、絵本で読んだり、映画で観たりしたことはあったんですが、小説そのものを読んだのは、数年前でした。この小説の最初に「買うのを躊躇する人に」という序文がついています。僕、初めにこれ読んだ時、訳者の人がつけたのかなあ、と思ったんですよね。ずいぶん大胆なことするなあ、という印象でした。だけど、他の翻訳を読んでみたら、それにもついていて、結局、作者のスティーブンソン自身が書いたんだということがわかりました。こういう試みを見たのは初めてでした。

    買おうかどうしようかと迷っている人に
 
もしも船乗り言葉で語られる船乗りの物語が
 風と冒険が 炎熱と酷寒が
 帆船が 島々が 孤島に置きざりにされた男が
 海賊や埋蔵財宝が
 そして往古から語りつがれた
 あのいにしえのロマンスが
 かって私を魅了したように
 私より優れた今の若者をも魅了するなら
 よろしい お買いなさい
もしもそうでないなら
 勉強第一の今の若者が
 もはや往時の渇望を持たず
 キングストンや 勇者バランタインや
 森と湖のクーパーに憧れぬなら
 それもまたよろしい
 それなら私と私の海賊仲間は
 それらの作者や作中人物がよこたわる墓に
 とっとと退散しよう 
(スティーブンソン「宝島」(村上博基訳)光文社古典新訳文庫、18832008より)

K 面白いですね。
W 今の若者が自分より優れているなら、この本を買うだろうし、勉強第一なら買わないだろう、って言ってるんですよね。
小池さんと次に出す本にも、こういう序文つけましょうか。
K 書店に並ばないと、序文も意味がないですね……
W 「新アラビア夜話」という作品には「自殺クラブ」というお話も入っていて、面白いですよ。マイケル・チミノ監督がベトナム戦争を描いた「ディア・ハンター」という映画にでてきたロシアン・ル―レットみたいな話が出てきます。この小説では、自殺志望者がトランプに命をかけるんですけど。スティ-ブンソンって、どこか突飛と言うか、人が全く考えないようなことを思いつきますね。
K へえ。
W 青空文庫に入っている「医師と旅行鞄の話」という作品は、「新アラビア夜話」のうちの話の一つです。
 それから僕が忘れられないのは「若い人々のために」という随筆集です。「恋愛と結婚について」という副題がついています。スティーブンソンが31歳で出版した作品です。結婚した翌年ですね。
僕はたしか20代のはじめ、大学生の頃に読んだんですが、ものすごくショックを受けました。当時出ていた、旺文社文庫という緑の表紙の本でした。最近、ネットの古本屋さんで見つけたので買って、もう一度読んでみたんですけど、懐かしかったですね。40年ぶりぐらいかな。

 しかし結婚というものは、安楽なものであるとしても、けっして英雄的であるとはいえません。それは心の広い男を偏狭にし、台なしにしてしまいます。結婚すると、男はだらしなく利己的になり、道徳的にも贅肉がついて動きがにぶくなってしまうのです。(中略)二十年前なら犯罪者にも英雄にもなれたでしょう。しかし今では、そのどちらにもなることができないのです。彼の魂は眠っています。別に遠慮して小声で話す必要はありません。彼は絶対に眼などさまさないのですから。ドン・キホーテが、独身を通したのも、マルクス・アウレリウスの結婚が不幸に終わったのも、けっしていわれのないことではないのです。           
(『若い人々のためにーー恋愛と結婚について』(守屋陽一訳)旺文社文庫 18811966 、13-14ページより)

 はっきりいうと、恋愛した人だけが結婚するのだとすれば、大部分の人は独身のまま死んで行くほかはないでしょう。そして、恋愛して結婚した人の家庭では、いつもさわぎがたえないはずです。ライオンは百獣の王ですが、家庭で飼うには不適当です。同じように、恋愛というものも、あまりにはげしい感情なので、家庭にはふさわしくありません。恋愛は、ほかのはげしい感情と同じように、人間の性格の中にひそんでいる、もっともよい面だけではなく、もっともわるい面、つまらない面もさらけだしてしまうのです。
(同上  17ページより)

 結婚すると、男性にはすべての事情が一変してしまいます。横道にそれて、無邪気に道草の食える草原は姿を消し、長いまっすぐな埃っぽい道が墓まで通じているだけなのです。独身の時にはふさわしく賢明なものでさえあった怠惰も、養うべき細君をもつとなると、また別の意味をおびてきます。
       (同上 35ページより)

何か失敗をしても、それをそのまま認めれば、それですんでいたのです。しかし今、そういう余裕のある時代は去りました。あなた方は敗北の場所である人生に自分から進んで証人をつれこんだのです。もはやみにくい出来事に心の眼をとじることはできず、毅然として立ちあがり、自分の行為に責任をもたなければならないのです。そしてあなた方の証人は、あなた方の罪を裁く裁判官であるだけでなく、あなた方の犯した罪の犠牲者でもあるのです。彼女はまた、あなた方にもっともきびしい刑罰を課するだけではなく、自分自身もその刑罰をともに耐え忍ばなければならないのです。しかし、もう一度よく考えてごらんなさい。あなた方はだれよりも彼女に尊敬してもらいたく思い、あなた方を実際以上の立派な人間に思わせようとしてきたわけですが、よりによって、その彼女を自分のスパイにえらんでしまうとは、何という無鉄砲なことだったのでしょう。
(同上 35-36ページより)

W これ、スティーブンソンが結婚した翌年に出版したというのが興味深いんですけどね。
K よっぽど後悔したんですね。
W 僕が特に印象深かったのは、結婚すると、「長い埃っぽい道が墓まで通じているだけ」という一節でした。40年忘れられなかった。それだけ意外というか、こんな意見、それまで一度も聞いたこと無かったんです。
今は、結婚に懐疑的な意見が社会に溢れてますけど、40年前はまず聞かれなかった。「大人になったら、結婚して家族を作ったり、就職して仕事を持つのはあたりまえだろう」という感じだったんですね。「若い人たちに、結婚や就職についての懐疑や疑問は、もたせるな」と上の世代が一致団結していたというか。この40年、そのあたりは大きく変わりました。僕は、良い変化だと思いますけど。
K 40年前はそうでしたか。
W スティーブンソンが実際にこの随筆を書いたのは、今から130年以上前です。僕の場合、この本を読んだ後、モンテーニュとかニーチェとかチェーホフとか、いろんな人が結婚について懐疑的なことを言ってるのを知りました。「世界の名言集」みたいな本で、結婚について集めた発言を見ると、8割以上が否定的な意見なんですね。でも、20代の僕にとっては、このスティーブンソンの「若い人たちのために」という本の影響力が圧倒的に大きかったんです。
 あと、僕が30過ぎて、そろそろ結婚しないとまずいかなと思って、病院に入院していた父親に、それとなく結婚のことをほのめかしてみたことがあったんです。そうしたら、父が結婚に、ものすごく懐疑的なことを言ったんです。相手がどんな人かなんて全く聞かずに、「結婚なんかしなくても良いんだぞ」みたいなことを言いました。結婚というか、家庭を持つこと自体にすごく否定的というか。父はそのあと直ぐに死にましたけど、無口な人で、ほとんど話とかしたこと無かったんで、その時の印象はとても強烈でした。「へえ、こんなこと言うんだ」と驚きました。僕のこと、よくわかっていたのかな。
K いまからふりかえってみると、どうですか。
W どうせ僕なんか、だれと結婚しても、うまくいくわけなんか、なかったんだろうから、スティーブンソンにも父親にも感謝しています。「言われた通りにして良かった」という感じです。でも、当時は、圧倒的に驚きの方が強かったですね。とても意外というか、ほとんど聞いたことのなかった意見でしたから。
K いい話ですね。
W ああ、お腹がすいた。「美味しんぼ」の一件は、どうなるのかな。

20145月 東京・大泉学園にて)


<参考・引用文献>
スティーブンソン  ジーキル博士とハイド氏の怪事件(佐々木直次郎訳)  1886
――――――――  宝島(佐々木直次郎訳)  1883
――――――――  医師と旅行鞄の話(佐藤緑葉訳)  1882
夏目漱石      こころ 1914
――――      彼岸過迄 1912
中島敦       光と風と夢 1942 
―――       山月記 1942
芥川龍之介     藪の中 1921
ポー        盗まれた手紙(佐々木直次郎訳) 1844
萩原朔太郎     僕の孤独癖について 1936
(以上  青空文庫より)

スティーブンソン   ジキル博士とハイド氏(海保眞夫訳)岩波少年文庫 2002
――――――――   ジーキル博士とハイド氏(田中西二郎訳)新潮社文庫 1967
――――――――   ジーキル博士とハイド氏(小沼孝志訳)講談社文庫 1973
――――――――   ジーキル博士とハイド氏(村上博基訳)光文社古典新訳文庫 2009
――――――――   若い人々のためにーー恋愛と結婚についてーー(守屋陽一訳
旺文社文庫 18811966 
――――――――   宝島(村上博基訳)光文社古典新訳文庫 18832008 
――――――――   新アラビア夜話(南雲竹則、坂本あおい訳)光文社古典新訳文庫 18822007
フロイト   新版 精神分析入門(下)(安田徳太郎・安田一郎訳)講談社ソフィア文庫 19171970(「精神分析」1926を収録) 
夏目漱石   漱石全集25、別冊上、岩波書店 1996 (「余の愛読書」(談話)を収録) 
三島由紀夫  推理小説批判    三島由紀夫評論全集Ⅰ 新潮社19601989
有吉佐和子  悪女について   新潮文庫 19781983
浅田 彰   構造と力  勁草書房 1983

―――    逃走論  スキゾ・キッズの冒険  ちくま文庫 1986